好きなミステリ

たとえば名作との誉の高い「ホッグ連続殺人」は好みではない。

なぜなら、初めから徹頭徹尾不自然であり、

その不自然さを解消する唯一の方法が結論だったからである。

だから、最初から自然に考えればそれが結論ということで終わるのに、

それを無理な方向に「無理矢理」ミスリードされるのだから

読者としてはたまったものではない。

 

ミステリでは読者を惑わす前段での不思議に不自然さがあってはならないだろう。

自然に「こう考えられる」という一つの方向に読者は導かれる。

でも、そう考えるとなんとも不思議な現実が目の前に広がる。

そこに「謎」があるのだろうと思う。

それを端から「いやあ、それはむりやろ」って小説はいかがなものだろうか??

 

逆に、たとえばジル・マゴーンの「騙し絵の檻」なんかは素晴らしかった。

普通の日常が普通に流れる(状況は非日常なのだが、その流れは自然なのである)。

これには一切の不思議を微塵にも感じないくらいに理路整然としている。

不思議と言われれば、主人公が犯人とされているが、

小説としてそれは無いだろうから犯人は別にいるはずなのに、

すべての状況が主人公を犯人として不都合がないところだ。

だから、これが現実の話であったなら

そのまま話は終わっていて問題はないだろう。

しかし、これが最後の最後に鮮やかにひっくり返る。

淡々と書かれた事実に嘘も間違いもない。

ただ、その事実を並べ替えてみるだけで別の真相が見える。

邦題は原題の訳ではない。

おそらく訳者がつけたのだろうが、これがすばらしい。

まさに「騙し絵」である。

違った方向から見た途端に少女は老婆になる。

こういうのに憧れる。

 

それから、ミステリマニアと言って良いのか分からないが、

ミステリを読む人にはなんだかお約束みたいなものがあって、

そのお約束が出てくると不自然であろうがなかろうが

決まった方向に読まなくてはならない。

これに今でも不自然さを感じることがある。

例えば歩いたあとに雪が積もれば足跡は消える。

しかし、あるていど積もった雪の上を歩いたあとに積雪があった場合、

その前に歩いたあとは何となく窪んで見える。

もちろん足跡の採取などは無理かもしれないが、

スキー場で一晩降り積もったあとでも前日の歩いた形跡は見えるのに、

わずか1時間雪が降っただけで「足跡は消え去り」「密室」ができ上がる

というのはやはり腑に落ちない。

こんなのが結構ある。

それならいっそのこと舞台を未来とかの現実にはない場所に移し、

そこでのみ通用する「設定(あるいはお約束)」の中で物語を作る方が

よほど抵抗なく読み続けられるような気がする。

 

もう一ついえば、某有名作家の短編に採用されたトリックだが、

真っ暗な闇の中で被害者が射殺された。

しかし、まったく何も見えない真の闇の中で

どうやって犯人は狙い済まして撃つことができたのか?という疑問の答えが、

犯人は夜光塗料を被害者の背中に塗っていたから

暗闇でも被害者を見ることができたということだった。

これも、実際にやってみたらどうなるか分からないが、

銃を撃つのに標的の「一点」だけが見えているだけで可能なのだろうか?

自分の銃も見えないのである。

真の闇の中にいると、それこそ上下左右ですら分からないような錯覚に陥る。

何かの点が見えてもそこまでの距離も分からなくなる。

仕事柄、暗室でごそごそする事があるのだが、

赤色灯すらも消してしまうと遠くに光る赤いランプが幻想的で、

非常に近い場所にある一点が本当に遠い彼方のような気分にさえなる。

もちろん自分の手も見えない訳だから、

手をどう動かしたらそこに届くのかすら分からない感覚である。

こんなことをいろいろと経験して、

我々はその他のものとの相対で方向や距離をつかんでいることを知る。

でも、真の闇の中で一点の蛍光塗料があれば射殺できるとされても、

読んでいる方はその可能性を最初から否定している、

否定しているからこその不可能犯罪なのだと思うので、

そこを落としどころにされるとかなりキツい。

これらは揚げ足取りのつもりはなく、

情景を思い浮かべながら読み進めるときの大きな障害になるのだ。

 

と言いながら、「それは無理だろう」ってのでも興奮するのもあるのだから、

まあ、いいかげんなものだ。

例えば笹沢左保の「求婚の密室」の密室を作るトリックなんか、

単純明快で気持ちいい。

動機付けや成功の可能性に難はあるかもしれないが、

私にはそれがまったく気にならなかった。

他には、遊びを徹底されると逆にお約束が気にならない場合もある。

これは説明するよりお読みいただきたいのだが、

綾辻行人の「どんどん橋おちた」には呆れ過ぎて笑ってしまった。

逆に、同じ作者の出世作「十角館の殺人」はいけない。

あの本のトリックはあの一行に尽きるのだから、

その意味ではそれで良いのだが、

個人的な趣味としたら非常に不満足であった。

あとは、以前にもこの欄に登場させた山口雅也。

「生ける屍の死」や「キッドピストルズ」には、

「そんなバカな」を言わせない説得力がある。

 

トリックなどというもので表すのとは違うミステリがある。

それは作者の筆力だけで構築する謎物語である。

文章の力だけで謎を描き解決を描くのは、

表現技術の最も高いところにあるのではあるまいか?

それは、完成された情緒あふれる小説である。

謎も、全景が明らかになるまでは謎とすら思わない。

しかし、ある一行ですべての景色は変わる。

喜劇が悲劇になる。

もはやミステリのジャンルに入れていいのか分からないが

間違いなく傑作のミステリであろう。

その代表としては連城三紀彦の短編集「戻り川心中」をあげておきたい。

これも、私の作文能力ではコメントは不可能なので、

題名だけを挙げておくにとどめさせていただく。

というか、ただお読みいただけば他には何もいらないだろう。

 

書き出したらきりがないのでこの辺りでやめておこう。

この数日のミステリシリーズは、

実はミステリのかたちについて書き始めたはずなのに、

横道ばかりに筆が進んでしまい、それがまだ書き切れていない。