ミステリと研究

「ミステリで得られる最上級の興奮を研究でも何度か得たことが

今でも研究を続けている理由だということである」と

 

昨日のこの欄に書いたので、

小さな話で恐縮だが少しだけ実例を挙げておく。

 

大学院に入ったばかりの頃、私はバクテリオファージと呼ばれる

大腸菌に感染するウイルスの研究をしていた。

アポロの月着陸船にも似たそのウイルスの形がどのようにできるのかを調べていた。

ウイルスの頭部にはゲノムDNAが詰まっており、

だから、かたち作りの為には、既に作られている丸い頭部前駆体に

大腸菌内で複製した自己のDNAを詰め込まなければならない。

DNAが詰め込まれて「頭部前駆体」は「頭部」となる。

各論的にはその詰め込みの様式について研究をしていたのである。

 

ウイルスの頭部前駆体には一本のDNAがコンパクトに詰め込まれる。

DNAの片方の末端から詰め込みが始まり、

ATPのエネルギーを用いて内部へとDNAをたぐり込んでいく。

DNAは核酸と呼ばれているがごとく強い負の電荷を持った物質である。

だから、小さなところにコンパクトに詰め込まれていくと

電荷同士が互いに反発し合い詰め込み運動に反抗をする。

したがって、この詰め込み運動が終わって

詰め込み装置であるタンパク質が頭部から離れると、

中のDNAは飛び出そうとする。

したがって、DNAの最後の末端が通った時に

DNAを詰め込む入り口の構造(穴)の直径が狭まり

中に入ったDNAを飛び出ささないようにするのである。

 

 

さて、研究を続けるといろいろとデータが出てくる。

我々研究者は新しいデータを、これまでの知見の中に並べる作業をする。

どうしても上手く並ばない時には、これまでの知見の並びを少し変えて、

新しいデータが上手く入り込めるようにする。

これまでのデータ同士の関係性を少々変化させることで

新しいデータが入り込める場所ができるということなので、

表面的には、新しい結果からこれまでの通説の一部が覆される、

あるいは訂正されることとなり、

これが科学的には発見となる訳である。

 

さて、新米の研究者(の卵)である私が毎日実験をすると、

当然のことであるがデータを得ることができる。

しかし、次々に出てくるデータの入り場所がないのである。

それまでの知見の並びをどう変更してもそのデータが矛盾を導く。

先生の眼は「橋本、ええかげんな実験をしたやろ????」である。

毎日接しているからさすような視線は痛いほど感じる。

しかし、同じ実験は何度やっても同じ結果しか出て来ないのだから、

実験技術がふらついている訳でもなさそうである。

もう、このことをずっと考えていた。

寝ても考えていた。

その証拠に、この実験の夢を毎晩見ていたのだ。

あるとき、夢の中でそのデータの入り場所ができた。

その瞬間に飛び起きて研究室に走っていったことを今でも覚えている。

端的に言えば、それまでの結果の並び替え程度ではなく、

それまでの前提を変更しなければそのデータの入る場所はできなかったのだ。

どういうことか、それはDNAの末端が入り口の穴を通っても

入り口の穴の直径は変化しなかったということなのだ。

だから、頭部前駆体には頭の容量いっぱいになるまで

何本でもDNAは入ることができた。

この見方をしたら、新しいデータの意味が歴然となるし、

それまでのデータも並び替えられ、新たな意味を持つこととなった。

 

これは簡単には伝えることのできない感覚である。

結論を聞いてしまえばそれほど大した話ではない。

しかし、小学生でも考えつくような、

ほんの小さな誤解によってすべての物事の理解が間違っていたのである。

 

おそらく、推理小説はこの事実を創作し小説として提示しているのだろうと思う。

淡々と事実を並べる。

並べられた事実には嘘はない。

しかし、その事実を解釈する読者に誤解させる事実の提示をしている。

そして、その誤解によってその他の事実の解釈が歪む。

歪んだ事実から得られる結論はもちろん歪んでいる。

そして最後に、たったひとつの、それもほんの小さな誤解を解くだけで、

すべてのものの見え方が正反対に変化する。

最初からそう見るべき事実だったのにそう見えなかった。

騙し絵のように、一度見えてしまったら二度と騙されない。

というか、正しい方にしか見えない。

こういう瞬間にエクスタシーを覚えてならない。

だから、謎解きの瞬間はできるだけ最後に近く、

できるだけ簡単明瞭でなければならないのである。

何十ページも使って探偵さんがくどくどと説明をすると興ざめする。

個人的には探偵の解決編は必要ない。

ほんの一行、できれば最後の一言ですべての世界観ががらっと変わる、

そんなミステリに憧れている。