平和

日本で生活していると平和は恒久的な人類の願いだと思ってしまう。

このことの是非はここでは私ごときが論じられる問題ではないと思う。

しかしまず、「平和」という言葉の意味を考えてみた時にも

その言葉が使われる文脈によって異なることは、

「意味」とはすべからくそういうものであるから

何も平和という言葉に限らず当然だろう。

ある宗教の信者と別の宗教の信者が思う「平和」は異なってしかたない。

 

そもそも国益が互いに反することは当然である。

だからこそ国家は、国民の利益を守る為に存在するのである。

相反する国益を守る為の動き、すなわち外交は、

相手には相手が守るべき国益があるのである。

そしてその相手の国益が我が方の国益と反するのだから、

性善説に立っていたらどうしようもないだろう。

今回はこちらが一歩譲歩したから次回は相手が譲歩してくれると期待するのは

絶対にできないことは何度も見てきている。

一歩譲歩したらさらに一歩踏み込んでくるのが国際社会だということだし、

それは図々しいのではなく当然のことなのだろう。

 

平和の意味に立っても、一般に「戦争は悪い」という言葉は認められると思う。

でも、絶対的な悪かと言われれば、それには様々な意見があろう。

その国の言う「正義」の為に起こす戦争はしばしば聖戦となる。

そもそもアメリカにしても欧米各国にしても

革命や戦争によって「正義」を獲得してきた歴史があるのだ。

 

さて、話は変わる。

平和ということはどういうことなのかと本質的に考えたら

頭が爆発しそうになるのでとりあえず無視をするが、

でもまあ、日本で一般的に語られる文脈での平和とは

「喧嘩をしないこと」と大きく捉えてあまり間違っていないように思う。

では、その喧嘩をしないことをどうやって成就させるのかなのだが、

どうも「相手が殴り掛かってきてもこちらは殴り返さない」ことが

平和的行動だと思っている考え方が存在するようだ。

しかし、前述したように、国家間の利害は多くの場合に対立する。

多くの場合には、相手国は自分の意見を通す為に

ごり押しともいえる戦略を立てるだろう。

そもそも、正義とはその国の価値観を是として成立するものだろうから、

全世界共通の正義って概念が存在するはずはない。

で、それぞれの正義や価値観によって「正しい」結論がそれぞれに存在する両者が

「話し合い」による解決がどこまでできるのかということである。

例えばさまざまな問題がからむ駆け引きで、

ひとつの問題ではこちらが譲って別の問題では相手が譲歩するってのはあるだろう。

でも、どんなに理屈が通っても、どんなに明らかな無理難題でも

それが通るまで押し通すってことはある。

尖閣諸島でも竹島でも北方領土でも、

理屈からいえば日本の主張は極めて正しいと言われている。

だから、国際司法裁判所のようなところでの判断を仰げば

おそらく間違いなく日本側の主張が通るそうだ。

だから、まあ理屈上は歴史的に見ても日本側に利がある訳で、

では相手側は引き下がるのかと言えばそうではないことは事実である。

まず、相手側は裁判の場には一切でて来ない。

表向きの理由は「裁判をするまでもなく、当然自分たちの領土なのだ」だそうである。

日本は、自分たちは正しいから世界は見方になってくれると楽観しているかもしれないが、

世界の歴史を見ればそうではないことは明らかで、

やはり自分たちの主張をし続けていくことを怠ってはならないのだと思う。

時には世界を敵に回してでもすべき主張はするべきだろう。

互いの国益が真っ向から対立する場合には

殴り掛かってきたら殴り返すという姿勢で臨まない限り

(あくまでも「姿勢」で構わないだろうが、

「殴らない」と言う姿勢を見せた瞬間に交渉は終わるだろう)

間違いなくその議論には勝てないと思う。

こういうと野蛮だといわれる。

しかし、言葉の通じない相手に話し合いと言う武器だけでなにができるのか?

というか、互いに構築している論理がまったく異なる時に

話し合いと言うこと自体に無理はないのか???

これは、養老孟司氏が「バカの壁」で議論をしていたのでここでは触れない。

 

 

と、まあここまでが本論の前置きで、

平和ということを考えた時に

日本人はその憲法の前文からして、

世界は常識的であり、平和を祈念しているとの立場を取っている。

だから、自分たちが我慢すれば世界も我慢してくれると思っている節がある。

しかし、かたち論的進化を考えれば、

平和という表現型を維持する為には淘汰圧の意味を持つ

能動的な行動が必要不可欠なのだろう。

どこかでやんちゃなことをする国が現れた時に、

それを淘汰するような動きが積極的になければ

その「変異」は正解と言うゲノムに刻み込まれる。

平和を維持するということは、

ある一定の確率で生じる争いごとの芽という変異を

そのつど淘汰していかねばならないということになる。

世界平和を祈念するのはけっこうだが、

我々はやはり我が国を平和な状況でおくことが第一の努力であり、

それがすなわち世界の安定化へのひとつの行動なのだと思う。

領土問題にしても世界に主張をし続けることは大切である。

昨年、尖閣諸島沖の漁船衝突のニュースが流れた際に

アメリカでの一般市民の声がニュースに流れていた。

「日本人は歴史の問題でいつも嘘をつくから、

今回も(事情はまったく知らないが)日本人が悪い」というものだった。

国益ってこういうものではないのか?

どんなにその場の空気を壊しても、

自分たちの国益を守る主張はし続けなくてはならないし、

場合によったら「武力行使をも辞さず」との姿勢を見せるべきときってあるのではないか?

武力行使は絶対悪という考え方には様々な意見があるだろう。

しかし、強烈な武力を持った国が無茶な議論を吹っかけてきた時に

「話し合うぞ!!」といって何か解決するのか疑問である。

これは私の意見なので無謀な考えかもしれないが、

なんにしても、黙って何もしない「事なかれ主義」で

平和という表現型は維持できないだろうと思う。

 

第九条を擁護する政治家の話に違和感を覚える部分は、

「もし、攻めて来られたらどうするのか?」と言う質問に対してて、

「攻めて来られないように、政治が動く」ということばにある。

これは、まったく質問の答ではないと私は思う。

たとえ軍備で武装しようと考える方の政治家であっても、

政治や外交で最後まで攻められない努力をするはずである。

それでもダメだった時に、最後の最後に「攻めて来られたとき」という

最悪を考える危機管理を質問しているのだろう。

その答えに、「攻めて来られないようにしましょう」ってのはナンセンスだと思う。

「努力しても攻めて来られたら、抵抗はやめて国を明け渡しましょう」っているのなら

私は決して認めることはできないが筋は通っているように思う。

あるいは他の考え方もあるだろうが、

地下に潜って抗戦するというとも思えないし、

最悪の状況に対面した時にどういう理屈があるのか聞いてみたい。

 

この手の議論をしていると、世界最強の国と戦える武力を持たなければ意味がない、

という議論が出てくることがあるが、

では、世界で一番強い国と同じだけの軍備を持たなければダメかと言えば、

そういう考えもあるのかもしれないが、

たとえ負けても相手もただでは済まないぞくらいの武装でも

かなりの抑止力にはなると思う。

弾が入っていなくても入っている事を装って機関銃を持つことで意味がある。

しかし、せっかく自衛隊を持っていても

日本国民が「武力行使をさせない」と明確にした時点で

兵力でもなんでもなくなる。

武力行使をしないとしても、おおっぴらにそれを言うのは愚の骨頂だろう。

「殴ってきたら殴り返すぞ!」と相手に思わせてこその武器ではないのか。

 

主義主張はさまざまあって構わない。

しかし、平和を維持する為には、時に血を流す覚悟の決断すらあり得る。

ただ、何もしないで平和が続くという考え方そのものが不思議でならない。

性善説けっこう、でも危機管理とは徹底した性悪説に乗っ取って考えられるべきものであり、

性悪説を主張した時に人格を疑うような次元の議論ではない。

徹底的な性悪説に立脚して制度設計した上で

全員が聖人君子のような振る舞いをするのならそれで良いじゃないかと思っている。

この逆が起こったときこそが筆舌に尽くし難いくらいに怖いのである。

 

専門の勉強もしていないド素人がいうには

月曜日から過激すぎる主張だったかな???

論理的な矛盾箇所や事実誤認などがあれば

すべて橋本の責任であります。

また、これはあくまでも橋本個人の歪んだ考え方であるので

これが絶対に正しいと主張するつもりもありません。

不快に思われた方には申し訳ありません。