「かたち」「論理」「構造」「関係性」?
私は「かたち」について考え続けている。
この「かたち」という概念を表す為に漢字の「形」ではなく
平仮名の「かたち」をあえて用いているのだが、
平仮名が並んだときなどすごく読みにくくなる事もあって苦労している。
これは、漢字で書くとその意味が狭まってしまうような気がするからであって、
この言葉を用いる文脈によって意味を規定する限りにおいて、
本質的にはどちらでも構わないだろう。
さて、私が「かたち」について語るとき、それを表現する言葉として
文脈によって「体系」であったり「システム」であったり、
あるいは「論理」であったり「関係性」や「構造」であったり
ときに「ゲシュタルト」という外来語などを使い分けている。
あえて「かたち」などという言葉を使わずに
既に市民権を得ている上記の言葉を使えばいいとお感じの方もいらっしゃるだろうが、
では、なぜそうしないかということを考えてみたい。
まず第一に申し上げたいのだが、
あえて自己主張をするために新しい言葉を使いたいと考えている訳ではない。
既に用いることができる便利な言葉があればそれを使う方が
説明には楽であることは間違いないのだからそうしたいのはやまやまである。
問題は、上に挙げたそれぞれの言葉が特別な意味をすでに持っていることである。
考えていただければよくわかると思うが、
システムと論理と関係性を直感的に同じ意味合いでとらえる方は
まあ珍しいというか、おそらくは皆無だろうと思う。
これまでに拙文をお読みの方はなんとなく同じような感覚を持っていただけるかもしれないが、
それは、私がこれらの言葉をそういう文脈で用い続けているからに他ならない。
ただ、ではこれらの言葉を用いることなく
単に「かたち」といえばいいのかといえばそれも少し違う。
いや違うことはないのだが、
ある概念を説明するためには、
用いる文脈によってのみその言葉は規定される訳であるから、
様々な文脈でこの言葉を定義しなければならないのだが、
その定義がなかなか難しいのだ。
というか、かたちを規定する文脈の中で論理や体系・関係性などの言葉を用いて、
かたちという言葉を意味付けしようとしていると言えばご理解いただきやすいかもしれない。
ある言葉を意味付けするためには文脈によって
その言葉が指し示す部分を切り取らなくてはならない。
例えば、frequencyという英語は「頻度」と訳されるが、
別の文脈では「周波数」とも訳される。
これは、frequencyという単語は、日本語の「頻度」も「周波数」も同様に包含するように
英語の文脈によって切り出され意味付けされているのに対し、
「頻度」という日本語の単語と「周波数」という単語が
日本語の文脈においてその切り出され方が違うために生じる意味の違いである。
だから「ア・プリオリに絶対的な概念が存在し、それを表現する言葉が違うだけだ」
という考え方に常々わたしはNOと言っているのである。
その概念の切り出し方が違えばその意味は異なる。
その意味が異なれば認識も異なるという事なのだ。
このように、ある文脈で「かたち」という言葉を用いる時には、
「論理」と同義に意味付け可能であるし、
その場合にはあえて「かたち」という市民権を得ていない単語を用いるよりも
「論理」と表現する方が正確に言いたい事を表す事ができるのである。
同様に、文脈によっては「体系」と表現する方が適切な場合もあるし、
「関係性」という方がよりよい場合もある。
根底に流れる意味合いは同じなのだが、
だから「かたち」という言葉が私が考えている意味で市民権を持つようになれば、
すべてをかたちと表現すれば済むのであるのだが、
現実にはそうはいかない事が多いので様々な言葉を使い分けて
その時に言いたい内容に近い表現をつくるように努めているのである。
だから、私の話を最初からご存知の方々には比較的抵抗なく
これらの言葉がご理解いただけるのだろうが、
いきなり最近のコラムを読み始めた方には、
文脈によって「論理」や「体系」などの言葉が使われているので混乱するかもしれない。
数学と言語が同じ論理体系であり、それがかたちであるみたいな文章を、
何の事前情報もなく読んでしまったら「???」だろうと思う。
しかし、こればかりはどうしようもない。
これが、私がセミナーやレクチャー・講演などで「かたち論」を伝える限界に感じている事である。