色即是空
人は、人とのつながりを持ってのみ己の存在を規定できる。
それが日本人の感覚であり、この思想の本質では無かろうか?
これを私は、言語の違いによるとかたち論では考えた。
アメリカ人(英語あるいはその兄弟の言語を話す人々)は
他者との関係性ではなく個を重要視する。
個、すなわち己である。
しかし、個がア・プリオリに成立できるはずは無い。
何かと相対視できなければ存在そのものがありえない。
だからこそ、西洋には唯一絶対の神が存在する。
その頂点と己とを相対するのである。
それに対して、日本人は周囲の人々と己を相対する。
たとえば家族の中での己の立ち位置を考え、
あるいは町内会での、会社での、飲み仲間での
己の立ち位置を相対的に意識する。
その瞬間に意識する集団に己の存在を依存する訳である。
だからこそ日本には八百万の神々が存在するが、
唯一絶対の神が存在し得ないのではないだろうか?
と、ここまではかたち論やことば論で書いたことがらである。
しかし、某公共放送で般若心経の解説を聞いたところ、
色即是空の意味が私の言うのとは全く違っていた。
あると思ったら消え失せて、なくなったと思ったら出てくるという、
「無常」のような解説がなされていた。
専門家が言うのだからこれは本当なのだろうが、
こんな事ならわざわざ言う必要もないのではなかろうか?
やはり私は、「色と空」を「要素と関係性」としてとらえたい。
こんな考え方もあって良いと思うのだが・・・だめかな?