構造論的生物論

なんかすごいタイトルですがそれほどの内容はありません。

似たようなタイトルをつけ過ぎて選択肢が狭まっただけのことです。

 

ゲシュタルトを考える時に要素に分解したら意味をなさなくなる。

個々の要素の実体に意味があるのではなく、要素間の関係にこそ意味がある。

などと、私もよく話しをする論法があります。

これ自体は何も間違っていないと思いますが、

この論法は、直感的に「反分子生物学」的な意味に取られることが多く、

そこで不必要な軋轢を産み出したりすることもよくあります。

私は「生きものは分子などでは語れない」と言っていますので

「反分子生物学」と理解されてもあながち間違いではないとは思いますが

そうひとくくりにされると「ちょっと違うよな」って感じるのです。

 

では、分子生物学は分子そのものを見ることで分子の働きを解析しているのでしょうか?

それは絶対に違いますよね。

分子ひとつだけを解析してもその分子の機能は分かるはずはないし、

そんな研究などまず見たことはありません。

あくまでも、他の分子との相互作用を元に、

その関係性を見ているわけで、これは立派に「構造論的」思考法だと思います。

だから、細胞生物学者が分子を扱うことには何も抵抗はありません。

免疫系の研究者は分子で議論して構わないというより、

分子でこそ議論すべきだろうと思っています。

なぜなら、多細胞生物であっても血球細胞は単細胞的側面を有すると感じるからです。

でも、発生学者が分子の議論をし始めると途端に違和感をもってしまいます。

 

私が問題にする前に、既に団まりな博士が問題提起しているように

その解析する対象と解析レベルとの問題が語られるべきで、

違和感の正体は、まさに「階層性」の問題だろうと思うのです。

その上で、構造論的志向を踏めば何かが見えるかもしれないってことです。

 

分子の働きを見る時に、分子間の相互作用を解析するのは至極当然です。

遺伝子の機能を考える時には、その遺伝子産物(タンパク質)が

他のどのような遺伝子産物や分子と関わるのかを知らなければならない。

そうすることで、その遺伝子の働きが自ずから見えてくるのです。

問題は、その遺伝子の突然変異体が形態形成異常を起こす場合に

その分子機構と発生機構を同一レベルで扱ってしまうところにあると感じています。

脊椎動物が持っている遺伝子は、その多くをショウジョウバエでも持っています。

そして、ショウジョウバエで詳細な分子機構の解析が進んでいて、

そのレベルにおいては脊椎動物でも同じ原理を当てはめることが出来る。

ある成長因子が特定の受容体に結合し、

そのシグナルが細胞内の特定のタンパク質を介して核に到達して、

新たな遺伝子の発現を誘導するって図式は、

脊椎動物でもショウジョウバエでも変わりないことと思います。

だから、ショウジョウバエの研究成果で脊椎動物の研究が進んでいる

などと考えることもある側面においてはまったく問題ではありません。

 

この議論の典型が、眼を形づくる遺伝子に見られます。

20年ほど前にショウジョウバエとマウスで眼の形成不全を起こす突然変異体が得られ、

その原因遺伝子が基本的に同じものだったことが分かりましたが

その時の分子生物学者の言葉は

「ショウジョウバエとマウスの眼は実は相同な器官だ」でした。

私は「えっ、いくらなんでもそれはないやろ」って思いましたが

偉い先生たちまでそれに似た文脈で語るときに

「本当はそうなのかなあ?」などと思ったことを覚えております。

 

これは進化の連続性の議論にも密接に絡むのかもしれませんし、

動物門を超えて相似と相同の議論をすることの愚を見ているのかもしれません。

何にしても、分子の一つをとってそれと発生現象を直接的に結びつけることに

何とも言えない気持ち悪さを感じてしまうのです。

この辺りを考えてゲノムを見直すと、

宮田先生の「ソフトモデル」を発生学者として信仰しないわけにはいかなくなるのです。

発生と分子の問題として、脊椎動物か無脊椎動物かというのも個人的にはあるのですが

ここでは焦点がぼけるので書かないでおきます。

これは、発生機構(機械)論の議論にもなるかもしれないと考えています。