May I?
May I?(してよろしいですか?)
Yes, you may.(していいですよ)
という英語の言い回しがある。
しかしこれはかなり形式張った
あるいは格上の人に対する質問の仕方である。
また答えるにもYes, you may.は
してもいい(けどあまり望ましくない)という
ニュアンスが含まれる場合も多く
普通に許可する場合には上から目線の物言いであろう。
だから普通はCertainly. とかSure.とかを用いる。
でも、Certainlyもある意味で堅苦しい感覚はある。
というようなことを参考書や辞書で読む。
だからMayは・・・ってことなのだが、
この文の意味をmayという助動詞が決めていると考えるのは
間違っていると言わざるを得ない。
むしろ、これらの文章がmayの意味を規定している。
これら1つ1つの文章と、その文章が表す事象が
Mayの意味を規定するのである。
May I?と聞く状況があり
その状況はCan I?と聞くときとは異なる。
またYes, you may.といわれる場合と
Certainlyと言われる場合の雰囲気の違いが明確にある。
これら全てによって潜在するMayの意味が切り出されるのである。
少なくとも赤ちゃんが言葉を覚える過程はこの通りであって、
単語を覚え、文法を覚えてから言葉を覚えるのではない。
全ての単語がア・プリオリに意味を持つことはあり得ないのだ。
その単語が成立するためには、
その単語以外との違いが必要であり、
また、その単語が意味付けされるためには
その単語が他の単語と織りなす関係性の存在が必要なのである。
この見方はある程度理解されやすいと思う。
これが大きな意味での構造論の考え方であろう。
私は、単語を遺伝子と置き換え
文章やその他のものとの関係性をゲノムと置き換えて
生きものの論理を見いだしたいと思っている。
そして、このような思考には議論が必要なのである。
かなやまさんが、橋本の足を引っ張ると危惧されているが、
むしろ足を引っ張るくらい自由な議論ができないと
面白い話はできないのだろうと思う。
だから、レクチャー形式に偏ると面白くない。
橋本のいうことが正しい前提で、
それに迎合する回答が並ぶのだから。
最低限のレクチャーをして、あとは自由に話し合う。
もし、おかしいと感じるところがあればそれを述べて
そこから議論を進める。
これが大切なのだろうと思う。
いま考えているのは、学生さんのレベルでの議論を聞きたい。
進化や発生を勉強している学生さんが構造論の立場に立った時
どのように考えるのかを議論して頂きたい。
そこに研究員が入ると、研究員の言葉が大きな意味を持つので
学生さんが話しにくくなったりしそうだから
とりあえずは学生さんだけで。
この意味では私もいない方がいいのだが
流れ上そう言う訳にも行かないので
隅の方でひっそりと存在します。
ってことを考えているのだがいかがだろうか?
もちろん研究館の外からの参加も歓迎なのだが
それをいい始めたら動かなくなるのでむずかしい。
いよいよ集中レクチャーが始まりそうですね。学生さん達の自由な発想など楽しみですね。
面白そうなので、集中レクチャーの様子や感想など、またブログに載せて下さい(^-^)