情報とは

モノを科学の対象にするか情報を科学の対象とするかの考え方を西川先生はよくなさる。

この情報という概念について、西川先生は個人の定義をお持ちだろうが、

情報という言葉をよく考えてみるとその意味が実はよくわからない。

 

たとえばモノに対しての情報とする場合、

ものはそこに実在するけれど情報は実在として認識できないとなる。

この論法だとモノはア・プリオリに存在することとなるのだが、

その議論は少々荒っぽい。

あまり考えなければそのまま受け入れそうになるが、

記号論的に見たらモノがア・プリオリに成立するためには、

相対的な位置を与えられなくてはならない。

すなわち、「ヒトは意味を持つものしか理解できない」のである。

意味を持つとは何かについては相対的にしか議論できない。

あるモノがそれ自身意味を持つのではなく、

周囲との関係性やそれが存在する文脈の中でのみ意味をもつとしか考えられない。

 

それ以前に、あるものをそのものとして認識できるのは、

それに意味を与えて切り出して来た結果である。

世にまったく同じリンゴは存在し得ないにも関わらず、

我々は個々の違いを無視してリンゴをリンゴとして認識できる。

リンゴとしての意味付けがなされていなければこの認識はできない。

すなわち、そのもの自体に生得的に意味が与えられているのではないということで、

それ自体にア・プリオリに意味が与えられていると考えるには、

それこそ神を持ちだすしか方法は無いのだろう。

 

だから、モノはア・プリオリに存在し得ないし、

この観点からモノと情報の違いをいうことはできないのではなかろうか。

では、ここで議論されている、「モノ」に対する「情報」という概念は何かと言えば、

おそらくモノとモノとの関係性の「関係」だろう。

関係は目に見えない。

この意味で目に見える(ような気がする)モノと対称の位置にあるとしている。

しかしここでまた問題が生じる。

この「関係」の概念を成立させる要因に時間を加えるのかどうかである。

時間軸を入れなければ、その関係とはただのゲシュタルトであり、

「モノ」との違いは階層の違いであり質的に違わない。

DNAを考えるか、DNAとタンパク質の高次構造体としての染色体を考えるかくらいのことだ。

この例には抵抗があるかもしれない。

それは染色体がやはりモノとして扱えるからである。

しかし、論点に違いは無い。

 

では、関係性に時間軸を入れたらどうなるか。

おそらくこれはアルゴリズムのような概念となるのではなかろうか。

というのもアルゴリズムは時間を止めては成立できない概念であり、

上にあげたような意味合いで「モノ」としての実体を伴わないからだ。

ではアルゴリズムとは何かと考えれば、

時間軸を伴う関係性とすれば機能(はたらき)と同じような議論になる。

だから、モノと情報の違いはかたちとはたらきの議論に集約できそうだ。

 

と短絡的にできれば楽なのだが、

まあこの議論が何か違うよなと直感的に感じるのは事実である。

それは、情報という言葉が持つ意味、

すなわちその「時間軸を伴う関係性」が伝承されなければならないということだ。

しかし、言葉で表現された瞬間に伝承可能となるわけで、

遺伝情報という感覚の議論と同一にできない。

 

軽い気持ちで書き始めたが、

どう考えてもこれは長くなるからひとまずこの辺りで。