研究不正の問題
今回の理研の騒動に関して様々な意見が飛び交っているようだ。
人それぞれの受け止め方があるだろうから当然だろう。
ただし、研究者の意見はひとつにまとまっているように思う。
それは、法律論的にどう理屈を付けようともこの問題は明らかな不正であり、
研究者としてはまったく容認できないということだ。
私も同様の意見なのだが、
それ以上に今後のことが心配である。
もし、この問題で、法律論でも解釈論でも理研が少しでも折れたり負けたりしたら、
この研究不正を日本の科学界は認めることとなるわけで、
論文にこれだけのことをしても「悪気は無かった」で何でも済まされるという
悪しき前例を残すこととなる。
日本科学会の恥を世界にさらすと言う以前に、
日本の科学が後戻りできない重大な転機を迎えているようにすら思う。
私は、このような問題が起こるたびに、
今後絶対にこのようなことが起こらない、
起こす気にすらならないくらいに厳しい制裁を科すべきと考えていた。
誰がみても捏造だし不正なのに、
しかし、捏造だと認められるのは全体のほんのわずか、
大学の調査では基本的には事なかれ主義が大勢を占めているように思える。
記憶に新しい東大の問題でも、
「対照実験に図表を使い回しても(本実験でなければ)構わない」みたいな論理が
学会のかなり偉いところから出ていたから、
とにかく罰を与えたくない傾向が強いと感じる。
私は、対照実験の図を使い回すってことは
そもそも対照実験をしていないことに等しいと思うのだが別にそれは構わないようだ。
この姿勢が「結論があっているのだから論文を撤回しない」という
研究の世界では到底受け入れられるものではない理屈を助長するじゃないのかな?
そして、その捏造論文で職を得た研究者が
バレたあとも職を辞さなくても良いというなんとも不合理なことが許されている。
いまの科学の世界で職を得るということはとてもむずかしい。
だから、ひとつのポストの募集に数十人の応募がある。
そしてそこから1人の研究者を選択するのだが、
その際に最も重要視されるが過去の実績、すなわち論文である。
その論文が捏造でなされているということは、
採用試験に事実無根の情報を持って臨んでいるということになる。
運転免許も無いのに運転手の求人に応募するとか、
教員免許無しに教員採用試験を受けるとかと同じだろう。
だから、捏造論文が無ければその人は絶対に採用されないはずだ。
だったら、捏造と認められた瞬間にその職を解くべきである。
これは、教員免許を持っていない教員は即刻クビになるのと同じ道理だと思う。
しかし大学は二の足を踏む。
公務員(に準じる職)はいったん雇用したら解雇できないからというのが理由なのかもしれない。
あるいは法廷論争に巻き込まれたときの面倒さを考えるのかもしれない。
でも、これを許してきたからこそのいまがあり、
いまこれを許したら将来は推して知るべしだ。
どうしてこの議論がなされないのだろうか?
私は、優秀な友人がいまだに不安定な職にいることを日々みている。
研究をあきらめた優秀な友人をたくさん知っている。
結論が正しいから、その他は何をやっても許されるなんて平気で言える人間が科学をすること
その人が今後研究結果を出してくることを信じられるはずが無い。
ここで、例の細胞があるのか無いのかなんて問題ではない。
不誠実な論文が世に出たことだけが事実である。
さらには過去の論文に薬品会社のHPにある画像を載せ、
別の研究機関のHPにある文章を大量に載せ、
ゲルのバンドの切り貼りをして、
しかもネット情報によれば上下の反転などの、
これを捏造と言わずして何を捏造と呼ぶのかと思える加工を施し、
そういうことを平気ですることが、
「悪気は無い」「いけないとは知らなかった」で許されたら
日本の科学は本当に終わる。
大隅さんが学会を代表してキツい言葉を出したのは当たり前だし、
あの言葉ですがまだ言いたりない、おそらく日本人の大人としの自制をきかせた
礼儀正しい表現だったのだろう。
だからこそ、この手の話は許し難い。
こんなことを法律論で、規則や法律の文言の揚げ足を拾う問題にすり替えていること自体が、
もはや常軌を逸している。
人権侵害だって?バカなことを言うんじゃない。
日本の科学が終わろうとしているんだ。
突然失礼いたします。
コラムの方いつも読ませて頂いております。
研究不正やそれに対する捉え方についてはおっしゃる通りだと思います。
STAP細胞についておっしゃっているのであれば、電気泳動の写真の切り貼りなんてとんでもない話だと私も思います。そもそもなぜ論文がアクセプトされたのかすら疑問ですが。
しかし、橋本先生は現在の日本の研究界について強めのことをおっしゃっていますが、橋本先生は今現在大学院生や若手のポスドクといった立場ではなく、この日本の研究界をつくり、牽引してきた立場であると思います。その責任のある立場からはどのように研究界の問題についてお考えでしょうか。
若手研究者の不安定な立場・待遇、近年大量に増えた博士号、論文の数や質で猛烈な争いをして他人を出し抜かないといけない現状(研究でドロップアウトすれば無職の可能性大)。しかも今回の問題、調査委員長まで疑惑が出てきています。厳罰で研究界から追放といった尻尾切りで正常化を図って解決するような問題でしょうか。
ご返答をお願いします。
コメントありがとうございます。読み返すと、たしかにかなり過激で攻撃的な物言いになっていますね。もっと別の表現があったと反省いたします。
山下さんの、特に後段部分のご指摘はもっともだと感じます。ただ、これをどうすれば良いのかについては私にはわかりません。あくまでも個人の意見として考えることはありますが、その内容は多岐にわたり、それらが密接に絡み合っているので、私の日本語作文能力で軽々に表現することはなかなか困難です。たまに、その一部をお話ししたり文章にしたりいたしますが、話しながら書きながら別の大事な論点に触れられずにいるもどかしさと、そのために生じる議論の不完全さに情けなくなることもたくさんあります。
厳罰化が奏効するかどうかわかりません。しっぽ切りだけで解決するとも思いません。しかし、不正を行なったら厳罰に処するというのは、まともな研究社会を作る意味では当たり前なのじゃないかなと思ってしまうのです。私が知る限りほとんどすべての研究者が不正であると感じる問題を、法律論や人権の問題に置き換えて議論をすることへの違和感はかなり覚えます。どんな理屈をつけても「アカンことはアカンやろ」ってのが私の正直な気持ちです。「日本の科学を考える」http://scienceinjapan.org/では、研究不正に関してかなり突っ込んだ議論がなされてきたように思いますが、ここに私の意見を照らすと、私が「絶対におかしい」と感じることを「別に構わない」と考える人が少なからずいらっしゃったり、同じ研究者でも根本的な立ち位置が大きく違うんだなと思ってしまいます。おそらくこれが問題の根の深さなんでしょう。
実は、ここまでにかなりの長文を書いていたのですが、上述の通り、「別の議論を抜いてその議論だけをすると誤解を受ける」と感じることがたくさん出てきて、結局すべて消去しました。研究不正と若手の問題は表面的には異なる議論として成立できそうですが、両者が密接に関係しあっていることは誰の目にも明らかです。しかし、議論をする場合にはある程度問題点を絞る必要があることも事実でしょう。そうでなければ議論があっちこっちに行って収拾がつかなくなります。もちろん若手研究者とシニアの研究者の間には重要視する問題の比率も異なるでしょう。それはその時の自分がおかれている環境に大きく左右される問題だからで、人は自ずから己にとっての重大問題を一般論化しがちになると感じます。また、どんな制度であっても完璧にはなれません。悪用する人間も出るでしょうから、その枝葉末節の議論と大筋の議論をおなじ土俵にあげる不毛さも感じますが、枝葉末節なのか大筋なのかの判断も最終的には個人の価値観に大きく依存するわけで、こんなことを考え始めるとものが言えなくなってしまうのです。
まったくお答えにはなっておりませんが、とりあえずの回答とさせて下さい。