教科書を書き換える
ひと月ほど前のことですがイトケンくんが修論発表会に臨みました。
その後の面接で「どのような研究をしたいのか?」との問いに、
「教科書を変える仕事をしたい」と答えました。
聞いている立場としたら「あちゃ〜」です。
だって、「書き換える仕事」とやっちゃうと発端は否定から入るということになります。
そもそも間違えているのかどうか分からない教科書の内容を
片っ端から否定して実験を始めるってことです。
そしてまさにそのような指摘がなされました。
そりゃそうだ。
私の言うことを誤解していたのか、
私が誤解するような言い方をしたのか、
それとも面接で舞い上がっていたのか分かりませんが、
論理的におかしな話をしてしまったということです。
私は、学生時代の恩師の影響で最先端と呼ばれる仕事を毛嫌いします。
「世界と競争している」って言葉を白けて聞く癖がついています。
詳細は過去に本欄のどこかに以前書きましたが、
簡単にいうと「本質的・根源的」な研究をしたいということです。
こう書くと最先端は本質的ではないのか?ってことになりますが、
それはもう研究者個人の価値観に照らして判断することになります。
私には、俗にいう一流紙と呼ばれるものに乗る研究がすべて本質的だとは思えない。
最先端の分野でしのぎを削って研究を繰り広げているすごさは理解しているつもりですが、
それでも、個人的にはそれほど評価できません。
その理由はふたつあります。
ひとつ目は、「俺がしなくてもどこかの誰かがやってくれるんでしょ?」ってこと。
だったら「橋本しかできない仕事」をしたい。
「橋本がいなければこの分野は50年経っても進まなかった」と言われる仕事をしたい。
もう一つは、いくら最先端って言ってもその多くはあっという間に過去のものとなる。
次の最先端が表れたら、ちょっと前の最先端は忘れ去られる気がするのです。
そして、競争の激しい分野ではこういう傾向が強いと感じます。
そこでまた学生時代の恩師の話ですが、
師匠は「高校の生物の教科書に載せられるような研究」を根源的・本質的と表現しました。
この言葉に刷り込まれているわけです。
で、師匠の受け売りで私もこの言葉をよく使います。
それが、現在の仕事と相まって学生に誤解を与えたような気がします。
現在の仕事は両生類、ひいては脊椎動物の原腸形成運動に共通するものを知りたいことで、
その結果として教科書に書かれている両生類の原腸形成過程を否定する内容となりました。
そのことと、「教科書に乗るような仕事」という言葉がイトケンくんの中で混同したのでしょう。
あるいは、話の中で「教科書を変える」みたいなことを私は言いますので、
その言葉の責任もあるでしょう。
なんにしても、高校生でも理解できるし、
その現象を高校レベルで理解しないと大学や大学院に進めないくらい
基本的・根源的あるいは本質的な生命現象を記載したいという考えは
研究者を志した頃からずっと私の頭の中にあります。
そして、これが高じていまでは、
最先端技術に頼る仕事を半ば軽蔑するようなところもあります。
軽蔑ってのはちょっと違うのですが、
なんにしても「最先端」を面白く思えない病に取り付かれてしまっています。
私にとっては不治の病となっていますが、
学生に感染させないように気をつけねば。