発生を考えること

 

個体発生を見ると、たとえば縞模様や紋様形成など、

動的なかたちの形成に思いを馳せてしまう。

この動的な形づくりの情報はもちろんゲノムに載っている。

それを数学で解くということは、

ゲノムの一次元情報に細胞(卵)の空間情報が組み込まれ、

そこに時間軸(ライプニッツ的には「変化」)が加わったかたち作りの仕組みが

何らかのかたちで方程式に表される関係性を有しているのだろうことは間違いない。

ただし、その数式に乗る要素とは分子だけではないと思う。

だから、数式が出た瞬間に関わる分子を探すという今の戦略には

近視眼的には意味はあろうと思うが、

ゲノム(この場合は一次元ではない)の意味には届かないのだろうと感じる。

 

ここで「一次元のゲノム」と「そうでないゲノム」という言い方をした時に、

情報としてのゲノムがもつ一義的な意味と体系としてのゲノムが持つ多義的な意味が現れるように思う。

発生現象からゲノムを考えるとどうしても一次元情報という性質から抜け出せない。

それは他の次元の情報(時間軸と空間)はすでに卵によって提供されているからであろう。

しかし、その別次元の情報を作る情報もまたゲノムに載っていると考えた時に、

個体発生から系統発生へと思考は移る。

少なくとも一度限りの発生現象ではなく、繰り返されるべき発生現象へと思考は移るのだ。

この思考で個体発生を見直すことの第一歩としての比較発生学は新しいものを導いてくれると感じる。

ただ、比較する対象を精査しないとエボデボが陥った罠へとふたたび陥るのは明らかであろう。

この時に対象を見る目は系統発生のセンスではないかと思うのだ。

イモリとカエルの形づくりを見た時に、

その違いに驚いた後、隠れていた共通性に再び驚く。

これを見た瞬間に「モデル生物」という考えそのものの愚かさに気付かされる。

普遍性だけを見てもダメ、多様性だけを見てもダメってことなのだろう。

かたちを考える時にははたらきに思いが至らない。

はたらきを考えるとかたちが抜け落ちる。

普遍性と多様性,かたちとはたらき、個体発生と系統発生、

おそらくはこれら両者を同時に考えるところに生命はあるのだろう。

ただ、人間の思考はこれらを統一的に考える方法論をいまだ獲得できていない。

これを助けてくれるのが哲学的思考なのではなかろうかと思うのだ。