ゲノムと言語(2)

さて、生きもののゲノムは共通言語であると考える。

すなわち各生物種のゲノムは、その違い方に応じて、

たとえば方言による違いのようなもの、

あるいはフランス語と英語のような違いのようなものという感じである。

 

そうした場合に、普通に言語の相違を考えたものと比較して構わないのだろうか?

英語と日本語の違いをヒトゲノムとホヤゲノムの違いのように考えられるか?である。

これをYesとするかNoとするかは今のところ考えの違いでしかないだろう。

まあ、ヒトとホヤなら同じ脊索動物門に相当するから

このたとえはそれほど問題にならないかもしれないが、

これは門を跨いだ比較だった場合に、

同じDNAにより決められる共通言語と考えるのか、

それともまったく異なる言語体系だとするのかの問題である。

 

ここで言葉の問題がある。

ゲノムというのをその種を決める体系として考えられるため、

種があるいは門が異なれば異なるゲノムということとなる。

種レベルの相違であれば方言くらいの違いと見なして構わないだろう。

魚とヒトなんて見ようによったらよく似ているわけで、

それを決めるゲノムは共通言語として捉えられても問題はなさそうに思う。

しかし、ウニからホヤに至る相違を考えると、

これはもはや体系自体がまったく異なる感覚になっても仕方ないのではないか?

何かひとつふたつの遺伝子の違い、いや何十個の遺伝子の違いであっても、

それらが同じ文脈で働いている限りは門レベルの違いが生じるとは思えないわけで、

これはまったく異なる言語体系と考えたくなるのだ。

 

要するに、これらゲノムの違いというものと異なる言語の違いというものを

どのような感覚で比較検討できるのかという問題に戸惑っている。