ミステリの真剣度合い

ミステリが好きである。

解いて作者の鼻を明かしたいというよりは

ものの見事に騙されたときの心地よさが好きなのだ。

 

で、最近のミステリを見ると作者に姑息さが見えてならない。

たとえば昔の「本格」は作者と読者の真剣勝負だった。

だから、作者(探偵)がある犯人を指摘するとしても

他の人が犯人であってはならないという伏線をしっかり張っている。

犯人にたどり着く伏線と同様に

犯人ではあり得ない伏線が重要だということだろう。

正々堂々、真正面から受けて立つ、どこからでもかかってきなさい、

こんな姿勢が作品に満ちあふれていたように思う。

 

しかし、最近多く見かけられる作品では、

「別にその人が犯人でなくてもいいじゃない」ってことが多い。

まあ、それをうまく書いているからそれなりに読み進められるのだが、

やはり商売柄なのか、私は論理的にその人しかいない

その状況以外はあり得ない謎解きでなければ許せない。

だって、科学の論文で書かれている結果からは他の説明も成り立つはずなのに、

それらすべてを無視して自説だけを主張した場合に

それが論文として認められるかと言えば、それはありえない。

私はミステリにもこの水準を求めてしまう。

というか、このレベルの論理性は最低保ってほしいし、

その誇りを持ち続けていてほしいと思う。

まあ、大上段に振りかぶる話でもない。

簡単に言えばこれが私のミステリの好みってことなのだろう。

 

同じことはパズルでも感じる。

IQの高い人だけが入ることが許される集まり(メンサ・・・だったっけ?)があり、

先日もテレビで流れていたのだが、

そこではとんちにも似たパズルの謎解きがなされているらしい。

その問題には正解があり(当然だ)、

その正解をあてようとするわけだ(これも当たり前だな、何を言っているのだ俺は)。

で、何か文字なり数字が並んでいるのを見せられ、

その次にくる文字(数字)をあてるみたいな問題があったとしよう。

で、それをメンバーが解答しその理由を説明する。

私は、この解答がたとえ出題者の希望とは異なっていても

問題を満足していれば正解としなければならないと考える。

出題者が考えた答えではないから×ってのはダメだ。

でも、実際はちゃんと説明できていてもそれは誤答となっている。

それなら、あらゆる解答の可能性を考えて、

それを否定する伏線の張られた問題を作らなければならないと思う。

有名なところで例示すると、

「OTTFFSSE・・・と並ぶアルファベットでEの次は?」ってヤツだ。

これはone,two,three,four,five,six,seven,eightの頭文字だから、次ぎにくるのはNとなる。

しかし、問題のアルファベットの順番の規則性を他に見つけた場合には

論理的整合性を持つ限りにおいてその答えも正解としなければ筋が通らないということだ。

相手にそこまで高度なことを要求する以上は、

同じレベルで問題を作成しなければならないと思う。

(どうでもいいことだが、メンサって全人口の上位2%のIQっていうけど、

これは50人に1人って計算だよね?

ってことは、私の子供時代は1クラスに40〜50人くらいいたから

クラスに一人程度の頭脳ってことで、

そう考えたら大したことないかもなって思ってしまった)。

 

昔の本格推理作家は犯人当て小説に懸賞をかけた人もいる。

それくらいに真正面から正々堂々と作品を書いてほしい。

それくらいの誇りはあってほしいなあと思う。

様々な可能性が同時に存在するなかで、

ちょっと意外性のあるとんちの聞いた答えを正解とする風潮は

姑息な目くらましに思えてならないのだ。

これまたあくまでも個人の趣味の域を超えない話であるのだが・・・・・。