ゲシュタルト崩壊と意味 その3
何かを思考している時に言語が介在しているかと問われれば、
それは「いいえ」としか答えようがない。
特に論理的に何かを思考しているとき、
脳の中に言葉があっては私は困るのだ。
というか、思考している時に脳の中に言葉が出てきた瞬間、
それまでの思考が消失することを私はよく経験する。
例えてみるなら、立体視をする時に眼のピントをずらせながら、
紙面に向かって顔を上下させることと似ている。
このときにまだ完全に立体に見えない時に
うっすら見えてきた立体っぽい画像をよく見ようとピントを合わせると、
その瞬間に立体画は消失してしまう。
ピントを合わせるというのはその絵までの実質的な焦点距離であり
立体視する時には実際の絵までの距離とは異なる場所に
ピントを合わせなければならないから、
現実的な距離を取り入れた瞬間に立体画像は消えるというのは理解できる。
だから、まったく異なる次元の論理を思考している時に、
それを現実的に考えようと言語に置き換えた瞬間に、
それまで見えていたかたちが消え去るのと似た感覚に思えるのだ。
全体性を捉えようとして部分を凝視した結果として
見えかけていた全体性が消えてなくなるという意味で
ゲシュタルト崩壊に近いのだろうか?
ただ、この場合はゲシュタルト崩壊という感覚よりも
体系間の推移とでも言おうか
ある体系を異なる体系から見ようとした結果として姿がなくなったと思える。
結局の話、その体系を考えるのはその体系からでしかあり得ないということなのだろう。
そうなると、團勝磨の「ウニが語ってくれます」と同様に、
「ゲノムが語ってくれます」ってくらいにゲノムを考え続けなければならないのだろうか。
西田幾多郎は、最も頭の冴えた午前中に思索を行なったそうだ。
それも「額に汗を流して思索した」という。
また、「西洋哲学の輸入を生業とし、自らの頭で考えることをやめた哲学はもはや哲学ではない」と
梅原猛が言うように、真正面からゲノムに向き合ってひたすら思考する姿勢が
近年の生物学者には全く欠けているのかもしれない。
それは、「西洋科学の輸入に徹する」とすら思われる態度からも想像できるのだが、
梅原が哲学に対して危惧したのと同じ感覚を我々生物学者も持たなければならないのだろう。
ゲノムの論理を知るためにはゲノムのみを考えるってことなのだろうが、
それがとにかく難しい。
ついついピントを合わせようとしてしまう。
ついつい言葉で説明しようとしてしまう。
ではどうするのか?これが分からないのだ。
まだまだ西田幾多郎の領域の端っこにも入れていないなあ。