ゲシュタルト崩壊と意味

ことば論で「生(なま)」という言葉について書いた。

生という言葉の概念は大きく私たち日本人にある。

生とは、生肉のように火の通ってない食べ物に用いるし、

生傷のように「あたらしい」という意味にも使われる。

この生傷と同じような意味だが「生々しい」という意味にも使われるし、

例えば生足は、「靴下やストッキングをはいていない足」と辞書にある。

その辞書の注釈には「男性には使わない」ともある。

たしかに男性の足に「生」という単語は似合わない。

 

で、いつも言うのだが、このように「生」という単語を含む言葉を

日本人は生まれてからずっと触れ続けてきた。

その中で「生」という単語が含有する意味をとらえてきた。

その意味とはゲシュタルトであろう。

 

で、例えばそれを辞書に載せるために整理すると、

上に書いたように1・火の通っていない、2・真新しい・・・と、

まあ分解しなければならない。

これは、英和の辞書を引けば一目瞭然で、

英単語は英語の文脈でその意味が形成されてきたから、

それに見合う日本語は、複数の言葉として取り上げざるを得ない。

というか、英単語の意味は多くの場合に

日本人がそれを同じだと認識することができない意味の集合体として

辞書には記載されているのが普通だろう。

 

で、「生」に戻ると、これは日本人なら共通理解として

生が持つ大きな概念を理解している訳だが、

それでも厳密に見続けていくと分解してしまうしかなく、

分解されたら、その特定の意味にはなるが、

「生」という言葉の持つ概念は消失してしまう。

これはまさにゲシュタルト崩壊の分かりやすい実例であり、

ゲシュタルトという概念を示す好例のようにも思えると同時に、

意味と概念を考える上で面白い示唆を与えているような気がする。

 

言い過ぎを承知で言えば、

ゲノムあるいは生きものを考える際の分子生物学は

全体を分解して辞書的な説明ができるに過ぎないのだろうと思う。

網羅的を徹底すると生き物が分かるというのは、

辞書の解説をすべて合わせると「生」のゲシュタルトが分かるというようなものだ。

そんなものが分かるはずなどあるはずがない。