カタカナ語 続き

自由・権利・平等といった日本語が明治以降にできたことは意外に知られてない。

もしこの概念がこの平成の世に輸入されていたらどうなるだろう?

こんな素晴らしい日本語が産まれただろうか?

たぶん産まれて来なかったと私は思う。

カタカナ語をかっこいいとでも思っているかのような

言葉の使い方を最近の知識人はするように感じているからだ。

 

自由はフリ−ダム

権利はライト

平等は・・・なんだろう?イクアリティみたいになるのかな?

とにかく、漢字表記は絶対になされないだろうなとは半ば確信している。

 

こうやって日常の言葉を思い返してみると、

いまの日本語のほとんどがカタカナ語になっていてもおかしくないような気もする。

ただ、似たようなことは漢字にも言える。

漢字は中国語だ。

それを、いまのカタカナ語と同様に日本語に根付かせた。

と考えたらカタカナ語の氾濫を非難する気持ちが少しそがれる。