カタカナ語
本欄の読者なら「橋本はカタカナ語が嫌い」ということをご存知だろう。
同時に「橋本はカタカナ語を職業病として良く使う」のもご理解いただいていると思う。
カタカナ語は、ある意味では日本語の特徴を示すのだろう。
他の言語ではここまで簡便に外来語を取り込めないように思う。
だから、日本人の応用力の高さも日本語に依存しているとまとめられても、
「ちょっと言い過ぎだろう」とは思いつつも認めたくなってしまう。
だったらカタカナ語でも良いじゃないかってことなのだが、
それはよくない!と私は思うのだ。
まずは言葉の植民地支配を受けている感覚に襲われる点だ。
しかし、それ以上に問題だと思うのは、
カタカナ語がファッションとして「格好いい」と認識されるところだろう。
まあ、これが意識の植民地支配にもつながっているのだが。
概念そのものが日本語にはない感覚ならまだしも、
そもそも訳出可能な言葉ですらカタカナで表記するという愚かしさだ。
自国の言葉に訳す努力もせず、
いや、その自国の言葉そのものがカタカナ語の氾濫によって淘汰されていくのを見ると、
日本人の領土意識に似た思いを起こさせると言ったら穿ち過ぎだろうか?
この点は、コラムニスト山本夏彦氏がすでに指摘している。
「横文字や片カナ語がいけないのはこれが全盛をきわめると、他がことごとく死にたえるからである」と。
外来生物が在来種を脅かしているのと同様に
日本語が外来語に脅かされているという事実に驚愕する。
これは、単なる言語の「生態系」の問題ではない。
言葉はその人の知性であり論理である。
言葉を正しく話せない人に正確な論理構築はできない。
言ってみればヒトという生物種が人間になることそのものとすら考えても良い。
山本氏は「私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ」とも言う。
見事な表現であり、まったくもって賛成である。
もっと日本語を大切にしても良いんじゃないか?
領土の島を議論するのと同程度以上に言葉の植民地化を議論しようよ。
もちろん、ここで変な国粋主義に陥ることは避けなければならない。
カタカナ語で示される日本語の柔軟性は日本人の柔軟性でもあるのだから、
中国語のようにすべてを漢字にしか置き換えられない言語とは
おそらくその性格として完全に異なっている。
これは、それを認識する脳の領域が異なっており、
漢字と仮名を使う日本人のような言語活動は
外国語を使う際の脳の働きとは完全に違っているらしい。
これが脳科学的に日本人の優れた点であるのかどうかは知らないが、
でも日本人の脳に固有の特性であることは間違いないだろう。
いまのように、優劣を無意識に含んでいるカタカナ語
(外来語は格好いい、あるいは日本語はダサイみたいな感覚)は
できる限り排除したいなあとは思うのだが、
徹底しすぎることは、カタカナ語を氾濫させることと表裏の関係であろう。
現にカタカナ語でしか表現できない言葉が存在するのは事実なのだから。