時間

論理2を書こうと思ったが、ここで少し時間について考えてみよう。

一般に絶対時間があるかないかと議論がある。

それを考えるのは難しい。

だって、絶対時間の定義がそれほど明確ではないように思えるから。

 

で、どうやって時間を測るのかって考えた時に、

そこには周期性抜きには語れない何かがあるように思える。

だって、昔は振り子時計で時間を計っていたし、

それ以前の段階で、地球の自転や公転(すなわち一日や一年)なども明確な周期性だろう。

今では何かの原子(たしかセシウムかなにか?)の発光周期を元に測っていると思うが、

それにしても周期性を元にしないと時間を測れないという気がする。

で問題があるのだが、これらの周期が本当に時間的な一定間隔で行なわれているのか?

これを考え始めると途端にトートロジーだと感じてしまいそこから抜け出せなくなる。

周期が一定間隔だとする基準は周期性にしかおけないのではないか?ってことだ。

理科の教科書に、昔と比べて一日の時間が長くなっていると書かれている。

すなわち、昔に比べて地球の自転速度が遅くなっているらしい。

これは光の周期性を基準にとった話であるから、

もしも地球の自転速度が変化していないとすれば

光の振動の周期性の方に変化があることとなり、

それをどうしたら判断できるかなんて論理的に考えて「できるわけない」ってなる。

 

で、この周期性の違いってのが、生きものの時間の違いに見ようと思えば見える。

あるいは、遺伝子には進化時間の違うものがあるそうで、

同じ個体の遺伝子を見ても、比較的変化し易いものとし難いものがあるらしい。

この場合にも、どちらを物差しとして用いるのかってのはある程度の恣意性があるように思う。

それこそ地球の自転速度と光の振動の違いにも見えないこともない。

もっといえば、時間の「速度」みたいな「定量性」を考慮にさえ入れなければ

なんとなくそれでも時は流れているとしてもいいように感じる。

それが原始生物から脈々と受け継がれている進化の系譜にみえてしまう。

固体発生や細胞分裂(遺伝子の複製)のような周期性から生きものはなっているのだが、

進化の流れには周期性がないように感じられる。

そこへの気持ち悪さがヘッケルに反復説をいわせたのだろうか?といぶかしみたくもなる。

私も安易に「時間」を問題にするのだが

そこにどこまで体重を乗っけて大丈夫なのか?少々不安に思うこともある。

 

で、なぜ論理2ではなく時間なのか?

それは、論理という辞書の概念に因果律の時間感覚を感じてしまい、

そう考えた時に体系がどのように時間を吸収できるのか考えたあげく

時間に関する堂々巡りと相成った次第である。

まあ、この流れから「相対性」に行くのはあまりにも安易すぎるかな?