論理?
最近は書くのをサボっているが、チョムスキーに関しては考えている。
で、思考の問題もさることながら前提の違いに戸惑っている。
これは以前も書いたが「言語」をどう認識するかってところだ。
私は言語を「体系」即ちシステムであり「かたち」であると認識している。
まあここまではそれほど齟齬があることではないかもしれないのだが、
同時に私は論理も「体系」であると考え、
言語体系も論理体系の一つの形態だと考えている訳である。
しかし、先日も「言語はただの情報だよ」っていわれたように、
言語を論理体系の一形態だとする考え方で私はかなり変なところにいるようだ。
たしかに、論理体系は言語に依存して成立しているようにも思える。
しかし、たとえば数学や物理学の論理は言語には依存していないどころか
私には他の論理と同じ水準の、しかしまったく別次元の体系のように思えるのだ。
そして、例えば一般に言う論理と言語の関係は、
論理の展開を言語によって表現しているから言語に依存していることとなるのだが、
それはあくまでも表現を言語に依存しているに過ぎないというのが私の思いだ。
で、「言語は数学と待った同次元の論理である」と私はいうのだが、
そこに多くの人の抵抗があるみたいだ。
チョムスキーにも、意味や論理の考え方に、
私とは次元の異なる論理展開というか、論理以前の前提のおき方の違いが明確に見える。
意味がア・プリオリに存在するって前提も私には抵抗がある。
しかし、チョムスキーの論に違和感を覚えることは実はそれほどはない場合が多い。
なぜ違和感を覚えないかと言えば、
前提を変えてみれば言いたいことに違いがないような気がするのである。
そして、またよくチョムスキーと構造論の対比が言われるのだが、
チョムスキーはアメリカ人であり、アメリカの構造論との相違は明確であるが、
そもそもアメリカの構造論はソシュールの構造論とは異なるものであり、
またチョムスキーはソシュールの信仰者でもあった事実からして
これらを対立させて考えることは正しいとは思えないのである。
で、この辺りを書こうとこのところ考えているのだが、
ちょっと根本的な話になるのでおいそれと書き始められないでいる。
これまでの流れでいきなりチョムスキーから話しが変わったとお感じの方も
ほんの少しはいらっしゃるであろうが、いましばらくお待ちいただきたい。
なんにしても、チョムスキーのいう基本のところをかたち論で書き換えられるのか?
そこがいま少しだけ個人的に楽しいと感じるところである。