真犯人

ミステリ小説を読んで、設定とは異なる真犯人を見つけるのはどうなのだろう?

というのは、たまにそれを小説にしている例があるのだ。

例えば山田正紀はダインの「僧正殺人事件」に関して

全く別の犯人を設定して小説を書いている。

 

で、最初の小説を書く立場として、

特に謎解きの本格ものを書こうとする時に、

別の解決法があったらどれだけマズいのだろうって疑問だ。

現実問題として、殺人事件で警察がアゲた犯人がえん罪だったら

大変なことになるだろう。

それと同じで、たしかに小説ではあるのだが、

与えられた条件では別の犯人の可能性もあるって状況はアリなのか?

あるいは、それをの地に指摘するのはアリなのか?

 

例えばトリックに「そりゃむちゃや」ってのはそこそこある。

でも寅さんじゃないが「それを言っちゃおしまいよ」だと思っていた。

真っ暗闇に被害者の背中に蛍光塗料を付着させて狙撃するって、

これはおそらくできないのは分かるのだが、

それを瑕疵として小説を否定できるのかってことだ。

これはこれで、蛍光塗料を付けるということを思いついたことで

良しとしてもいいんじゃないかって意見があると思うのだ。

 

まあ、もともとが犯人をという上人物に限っている時点で非現実的だし、

かなり制限した状況設定をしているわけだから

それと実現可能性を一緒にすることが愚かしいのだろう。

では、論理はどうかだと言うことだろう。

山田正紀はダインの理屈では犯人をその人と特定してはいけないと感じた。

ミステリには必ず論理がなければならないと私は思う。

だから、機械仕掛けのトリックを読んでも鼻白む。

糸と針を使って窓を上手に閉め、

それで密室を現実に作ることができると主張されても、

おそらく多くの読者は驚かないし楽しめない。

それは、別冊宝島の殺人トリック実践編(そんなのないだろうが)にでも

図解入りで詳細に乗せたら良いだけの話である。

密室と言われたら秘密の抜け穴は論外としても、

やはり、書かれているのに読者は見落とした何かで

一瞬のうちに解かれるのが気持ちいい。

物理的に解かれるのではなく、

心理的な思い込みを一瞬にして解いてくれるのが良いと思う。

51番目の密室なんかはたしかに物理トリックだが、

あれにはぶったまげた。

この驚きを得たいと思っているのだ。

 

んっと、話し始めから話題が変わってきた。

元に戻せないのでここでやめます。