普遍言語?

さて、思索・思考・哲学の論理体系と言語の論理体系のことを考えている。

言語的思考はおそらく必要だろうけれど、

思考・思索の時に少なくとも私は己が理解できるような言語を用いていない。

だから、思想・哲学の論理体系と言語の論理体系は

脳の中ではまったく別物として働くのではないかと

以前からここで議論をしている。

もし仮に、両者が同じレベルのものとすれば、

その基礎には普遍言語的な体系が横たわるのだろうか?

(えっと、普遍文法だったっけ?まあ、そんなやつ)。

何が言いたいかはすぐにご理解いただけるはずだ。

チョムスキーである。

以前からチョムスキーを考えに入れようと思いつつ、

どうしても私の思考の中に入る隙間が見いだせなかったし、

今でも見いだすことはできない。

 

で、普遍言語のような体系は間違いなく生物学的な脳の働きに依存する。

というか、それが一つの定義のようなものだろうと思う。

で、けっきょく普遍言語みたいなものを認めたとして、

で、一般的な「言語」と思想・哲学は同列に並べられるわけではないだろう。

ここで、単に普遍言語を持ち出せば何となく序列化ができ

なんとなく説明できるような気になるのだが、

それでは、自分の疑問への説明ができないのだ。

ただし、チョムスキーを私が理解できているかと言えば、

それははなはだ怪しいから、

もしかしたら綺麗に話はまとまるのかもしれない。

 

私は、多方面から「古い」と言われているサピアにもある種共感するので

私の頭がかなり原始的な論理で止まっているのだろうとも思う。

過去に勉強をした時には頭がまとまらず

それ以来ずっと逃げていたのだが、

チョムスキーを読み直そうかとも思う。

まあ、なぜいまチョムスキーなのかといえば、

先週にゲノムの議論をする場があって、

その時に、当然のように名前が挙がってきたからである。

言わんとすることの額面は分かったような気はしている。

ただ、それを今の自分の考えと共存させる方法が分からない。

自分の考えを捨て去ればいいのかもしれないが、

その勇気もないのだ。

 

それから、私に分からないだけなのかもしれないが、

チョムスキー(あるいは生成文法)とゲノムを同じ土台に上げるのに

まだまだ個人的には抵抗がある。

ただ、その拒否感の本質が自分自身で説明できない。

これがまた堂々巡りの闇へと入らせるのだ。

あまりお堂の周りをぐるぐる回りすぎるとバターになっちゃうかもしれない。