ヤラセ?

原発に関して説明会や公聴会でのヤラセ質問などが問題になっている。

たしかに、自分の都合の良い方向へと意見を導くやり方には問題が多いだろう。

 

何となく思うことだが、原発の公聴会などに集まる人の多くは

確固たる反対の意志を持っている人がそれも集団でという状況が多いような気がする。

ある種の政治的・思想的意図を持った団体が反対意見を集中させることが多そうに思う。

私はこのこと自体を否定しようとは思わない。

反対集会の場で、すべての参加者が反対の意見を持っているにもかかわらず、

そこに賛成の意見も登場させるべきだなんてことは思わない。

それは主催者側の考えでどちらでも決めたらいいことだと思う。

ただ、もしも本当にその場に赴いて中立の立場で説明を聞きたい人がいたら、

まだ態度を決めかねていて、その場の説明を聞いて考えようとする人がいたら、

その人たちには賛成・反対の両意見を聞いてもらうべきではないだろうか。

どちらかの立場に感情的に煽動することが良いとはあまり思えないのだ。

どちらの立場にしてもいい面と悪い面が存在するはずだから、

それを無批判に聞いた上で判断してもらうべきだろうと思う。

その場に積極的に参加し質問する人たちの多くが反対的な意見を持つ人だった場合には、

どうしても情報が偏る危険性があると思う。

これは、賛成派に偏ることも同時に問題であるために、

その方向へ煽動する為のヤラセであるのなら非難されるべきだろう。

 

中立ってあり得ないとよくいわれる。

でも、おそらく両極端から非難される立場が中立なのかなとは思う。

だから、賛成派反対派の両方から不満を持たれるくらいの集会がちょうどいいのかもしれない。

 

なんにしても、その場の状況によって片方の意見に偏りがちな場合には、

バランスの取れた質問をあらかじめ用意することは決して悪いとは思えないのだ。

両方の意見の論客をそれぞれに配置することは悪いとは思えないのである

(もちろんこれらは程度の問題はあろうし、ケースバイケースであることはいうまでもない)。

 

必ずしも専門的な知識を持たない人たちが公聴会に集まることだって大いにあるだろうし、

いわれたことを鵜呑みにしてしまい、批判的に聞くということもできない場合がありうるように思う。

それを、それぞれその意見に反対の立場から質問するということによって

論点(特にそれぞれの問題点)が明らかとなって、

利点欠点を理解した上で決断することができるようになる。

この意味での「やらせ」はむしろいいことのように感じるのだ。

まあ、ヤラセという言葉を用いるのがこの場合に正しいのかどうか分からないけれど・・・。

 

世論にはその場の、あるいはその時の流れがある。

現時点で原発を反対するのは容易い。

逆に賛成することはなかなかできるものではない。

でも、その瞬間の時流にのまれて将来の判断をするのは恐ろしいと感じる。

いまだからこそ、あえて原発推進派の人(論理的にでなければならないが)の意見は

公聴会の主催者があえて招待するくらいのことをしても良いと思うし、

質問もあらゆる方向からの議論がでるような配慮はしてしかるべきだろうと思う。

電力会社が社員を動員してその場の空気を作り上げたというのは論外だが、

それが、その逆を許容する理由にはならないとは思う。

 

何度も言うが議論は喧嘩ではない。

自分とは反対の意見にこそ慎重に耳を貸し、

彼らの主張する問題点を詳細に検討した上で

それでも自分たちの意見の方が正しいと判断できればそれが理想であろう。

その為には正確な情報を元に理性的な議論が必要であるし、

その目的を達成する為のヤラセなら許容しても構わないのではないだろうか?

ただ、それを隠してやるのではなく、何らかのかたちで公表することは必要かもしれない。

何にしても、ヤラセという言葉で「すべては悪」だと思考停止することは恐ろしいとは思う。

 

よくCMで流れているように「○○%の人が満足してます」って言っても、

満足していそうな人(例えば定期購入者とか)からだけアンケートを回収すればその数字になるだろうし、

本当に中立な判断ってすごく難しそうな気がする。

アンケートでも投票でもいつも思うのだが、

例えば一番だけを選ばせてその表の多いものだけを選ぶのが正しいのか?

ある場合には、1・2・3位の順位を付けて、

順位ごとに点数を付けそれをすべて足し算することで

よりその場の状況にふさわしい結果が出るような場合もあるだろう。

もちろんその逆だってありえるだろうし、

逆に「これ以外だったら他のどれだって構わない」って場合は

好きなものに票を入れるという操作ではこの意志は無視されることになるだろうし、

単純にその場の状況を測るのだってどれが公平か分からないよね。

まあ、こういうことも専門家はよく考えて下さっていると思う。

話は横に逸れたが、要はある公聴会の会場でどれだけ公平中立な議論ができるのかについては、

その目的の為にはある程度の言論統制はあっても仕方ないとも思えてしまうのだ。

いやあ、なんか思惑よりもかなり突っ込んだ結論になってしまったが、

実際にはこれほど強い信条をもっているわけではないのだ。

何となく書き進めたらこうなってしまったし、

書き直すのも面倒なのでまあいいかってことで。

気に触った方はご勘弁を。

何にしても、今回のようなヤラセを許容しているわけでは決してないことは、

誤解されるのもイヤなので蛇足を承知で申し上げておきたい。