もうおわかりですね?
このような文言を文章の中に時々見かける。
読み手の問題が多分にあるのだから一概には言えないのだが、
なんだか読者をバカにした表現だと感じることがある。
以前に誤訳の問題を扱った文庫(新書だったかも?)を読んだ。
その時に読者は当然正しい日本語約をお分かりですよね?とでも言うように
その誤訳に関しての議論が進められていた。
どこのどの点が誤訳であるのか、どういう間違いをしたから誤訳になったのか、
正しい意味はどうなのかについてまったく触れられていないものだから、
もう欲求不満だけが残る読書だった。
これは私の水準がその本に達していなかっただけだったのだろうが、
ならその本は専門書の棚に、少なくとも語学書の棚に並べて欲しかった。
この手の感覚で標記文言を書いていると感じられる文章をたまに目にするのだ。
何かについてダラダラ書き連ねたあげく、
何か意味ありげな文章を乗せて「これに関してはもうご理解いただけるだろう」と終わる。
しかし、残念ながら私にはまったく「これ」が分からないのである。
なにも理解できないのだから正直に言ってイライラする。
たとえば、何か新しい発想で論理を展開してきた結果として、
普通に目にする物事を取り上げて、
それを新しい見方でみたらどうなるかについてを議論する場合、
あえてすべてを語らないで読者の発見に任せる方が効果的だというのはある。
あるいは、同じような例を挙げていて、
これ以上はあまりにしつこいと感じられるギリギリのところで、
解説を省いて例示だけをするってのも文章の技術としてはアリだろうと思う。
でも、私がここで書いている内容はそういうのではない。
衒学的というのは学問をひけらかして自分を偉そうに見せるさまをいうのだろうと思うが、
ある一定水準を超えた人にしか分からないくらい高度な内容について「もうお分かりですね」という行為は、
この「衒学的」な人と精神の根本が相同であるように感じるのである。
本当に大半の人が分かるくらい明確なときにしか
「もうお分かりですね」という言葉は言ってはならないと私は思う。
「お前らには分からないだろう」って人と小馬鹿にしたさまが透けて見える文章には
その筆者が狙っているような「偉いなあ、賢いなあ」という賞賛の言葉ではなく
「こいつバッカだなあ」としか感じられない浅はかさが漂っているように
私には感じられてならないのである。
ただ、この議論の根本に存在する危うさとして、
実は橋本だけがバカであり、
一般にはすでに「もうお分かり」のことが書かれているだけかもしれないことがあげられる。
これがバレることが恐ろしいことだ。