技術と芸術
独創的な発想をする力は凡人にはないだろう。
ただ、いくら独創的で斬新なものを思い浮かべても、
それを具現化する腕がなければなにも産み出せないだろう。
ただ、逆の場合、すなわち発想力はないが技術がある場合には、
それを芸術と呼んでいいのかどうかは分からないが、
少なくとも写実的であり精巧な作品を作り上げることはできるはずだ。
実はこの辺りにも写実的な芸術作品への私の評価が低い理由がある。
たしかに写真のように見事な風景なのだが、
だったら写真でいいじゃない?ってのが私の感想。
写真の技術が無かった時代ならともかく、
今の世の中でわざわざ絵にするという時点で、
描くこと自体への意味がなければならないと思う。
「うまいなあ」と感心させられるのは技術力であって
その作者の脳の中にでき上がった着想の妙ではないと思うからだ。
ある人は、その絵を飾って一日中でも飽きずにいられるのがいい絵だと言ったが、
それは言い得て妙な表現だと思う。
ここでいう「いい絵」というのは定義はできない。
見る人によって「いい」が異なるからである。
でも私はそれが正しいと思う。
自分が好きな絵は、偉い人がいくらけなそうとも好きで構わないと思うし、
その意味では写実的な絵にも存在価値はもちろんある。
私が写実画を好まないから流れとして写実画の否定みたいになっているだけの話だ。
ただ、写実画を肯定するのはやはりその技術への感心にすぎないとは思う。
自分には描けない高度の技術に感心するだけの話ではないか。
話は変わる。
研究でも実は似たようなことがある。
ものすごく勉強をして、議論もして、豊かな発想力を持つ人が
実は実験がすごく下手だったりするのだ。
偉い先生になれば部下や学生を使ってその発想を具現化すれば良いのだが、
偉い先生になる為には若い頃に一人で実験をし論文を書かなければならない。
実験が下手だとその段階で淘汰されてしまう。
だから、実験が上手な人がどうしても研究の世界には残る確率がたかい。
ただ、例えばミッチェルとモイルのように、
ミッチェルの発想を忠実に具現化できる助手がいて初めて成し遂げられた研究もある。
織部なども、自らは作ることをしなかったらしい。
技術に秀でたものを持っている人と発想力に独創的な人が合体すれば、
芸術にしても研究にしてもとんでもないものができ上がる可能性はある。
バロム1のタケシとケンタロウのように、
このような分業体制も、確立したら新たな世界が広がるのかもしれない。