分子とかたち

分子生物学という学問は、元々はさまざまな分子の相互作用を解析し、

それを元に生命現象を解き明かす学問だったのだが、

現在は、ほとんど遺伝子の正体としてのDNAとタンパク質をメインとして、

それら同士、あるいはそれらと他の分子が

互いにどのように絡むのかを解析する学問に特化したように思う。

 

さて、その解析方法だが、当たり前だが分子の機能を探るのに

その分子のみを調べていては理解できない。

やはり何かと相対しなければその分子については分からない。

だから、その分子の働きを、別の分子との相互作用の結果として述べることとなる。

意味付けする為に相対化しなければならないというのは必然であり、

それは分子生物学という、一見したら要素還元主義的学問であっても変わることはない。

では、この場合の相対的関係性(すごい言葉だなあ)をどう考えるのかということになるが、

それは単純にその要素をある一面から意味付けをし、

同様の意味付けをした要素同士を無関係に、しかしそれっぽく並べたにすぎない。

だから、Aという分子の性質をBCという分子との絡みで意味付けし、

同様の、しかし全く別の分子DEとの間で意味付けされた分子Fとの関係性を記載することとなる。

まあ、これを繰り返せば分子間を直線でつないだネットワークが出来上がり、

それが完成したら生物は分かるという立場に立つのが

分子生物学の要素還元主義的な考え方の大元になる。

だから、分子生物学において「網羅的」という言葉が頻出するのである。

 

そして、私はこの「網羅的解析」では生きものは分からないという立場を取る。

その意味はかたち論で述べ続けているのだが、

構造は要素の総和を越えた意味を持つという言葉で説明できる。

この場合の要素とは、何か小さな単体だけをさすのではなく、

ひとつの関係性であっても、それが閉じたら要素となりうる。

だからAとBの関係性を記載し、BとCの関係性を記載する。

同じことをYとZ、ZとAという風に行なって

A〜Zまで26が関係する構造がすべて分かるのかといえば

それはありえないとなる。

そして問題は、分子生物学の洗礼を受けた研究者は、それで「分かる」とする。

網羅的解析が終了しない限りどちらが正しいのかが証明されないと思えるかもしれないが、

実はいうほど簡単ではない。

なぜなら、網羅的解析が完了するというのはどういう状況かを考えれば分かる。

すなわち、還元主義者の考える「完了」とは、

それによって生きものすべてを理解できた状態を指す訳だから、

すべてを理解できない限り定義的に「完了」とはならないのである。

もう一つ難しいことは、全体性、すなわちかたちが理解されれば、

そこに働くのはもちろん分子である訳だから、

分子の言葉でもその現象は説明できることである。

分子を網羅的に積み重ねてもその結果は得られないにも関わらず、

その結果が得られたら分子の言葉で説明できてしまう訳で、

そうなると還元主義の幻想を打ち破ることにはならないということである。

ATP合成機構としての化学浸透圧説は要素還元論からは出て来ないが、

化学浸透圧説が受け入れられたらそれは要素によって簡単に説明できる。

これが科学の方法論として還元主義がどこにでも食い込んでくる大きな原因だろう。

何度も言うが、これは生物学の研究を例に述べているが、

身近な話でいくつでも相似(相同?)なことは起こっているのである。