再び、原発の安全性について

しつこいとは自分でも分かってるが再度書かせていただく。

テレビのニュースで解説員という偉い人が今後の原発での防災計画について話していた。

そこで「中長期的には、更なる津波の対応も考えて」などといっていた。

まだ分からないのかだろうか?

中長期的ってなに?それはいつの事?

少しでも疑問があるなら今すぐに原発を止めて行なわなければならない。

この私の考え方はヒステリックに過ぎるだろうか?

でも、明日地震が起こらないってなぜわかるの?

起こるはずのない地震と津波が実際に来たわけでしょ?

この「今は大丈夫」のような心理状態が日本人的なのだろうか?

これは楽観ではなく現実逃避だとしか言えない思想構造であろう。

原発の停止で不便が生じる。

それをさけるためには原発を動かさなければならない。

だから、今は震災が起こらない事としようって構造だ。

どんな不便が生じても、原発の事故を比べればどちらを我慢すべきかはわかる。

今回の災害でそれを学ばなくしてなにを学ぶのか?

 

では、想定基準をどこまでにするのかについてだが、

例えば過去の経験から、

マグニチュード9クラスの地震はプレート上ではどこででも起こりうるので、

それを下回る想定は「想定値」ではなく「希望値」である。

過去に20メートルの津波が襲った場所では

想定値を最低でも20メートルにしなければならない。

今回、女川原発が津波から難を逃れたのは到着した津波が13メートルで

原発が海抜14メートルのところに建てられていたからであるらしいが、

それは、あくまでもたまたまだという事だろう。

現実に今回の地震で30メートルとも言われる津波に襲われた地域があるのだ。

また、福島第二原発は津波に襲われたものの難を逃れた。

その理由は、気密性の高い容器に原発の重要な建物が覆われていたかららしい。

だから、それと同じ構造の他の原発が安全宣言をしているらしいがその考え方もおかしい。

なぜ、今回の地震を想定の基準にして安心できるのか?

今回の災害を超える事態が想定されるならそれにあわせた基準が必須である。

それが危機管理だ。

 

では、どこまで想定すればいいのか?

それこそが議論であり決断である。

想定値など上限がない事は理屈として分かる。

しかし、マグニチュード20や30の地震を想定する馬鹿なやつはいない。

で、どのレベルで想定値として対策を考えるかということ。

その場合には、その想定値の科学的・統計的妥当性と、

それを超えた時に起こりうる危険の両者を同時に示すべきだ。

そして、両者を天秤にかけた結果として想定値が決められるべきだ。

想定値が先に決まるってことがあるべきではない。

また、自然災害の他にも考えうる要因はある。

米軍が放射能汚染にここまで強い事が今回初めて知らされたが、

その理由は、原発へのテロを現実問題として想定して

その対応策を具体的に考え続けてきたからだという。

では日本ではテロについてどこまで考えているのか?

あるいは、どのレベルのテロに対応できるようにしておくべきなのか?

その辺のヤンチャな奴らが入り込んでくるのを阻止できるレベルでいいのか?

国際的なテロ組織が計画的に総力を挙げてテロを起こそうとするのを想定すべきなのか?

中国軍が、ロシア軍が、あるいはアメリカ軍が総力を挙げて攻め込んできても

原発を守りきれる水準にすべきなのか?

あるいは、エイリアンが宇宙船でせめて来ても大丈夫な対応を講じておくべきなのか?

もちろんこれは原発の建築基準とは全く別の議論である。

警察や自衛隊など国家組織の協力が必須な議論であるが、

それは考えられて当然の話だろうと思う。

まあ、一国の軍隊が攻めてくるとかましてやエイリアンの襲来まで考えるのは行き過ぎなのはわかる。

では、どのレベルまで考えておくべきが妥当なのか?

逆に言えば、これを超えたら「想定外」としてあきらめられる水準はどこなのか?

国防上、口外できない機密は多々あろうかと思うのですべてを明示しろというつもりはない。

ただ、この議論も、先日来論じている安全性の議論と同レベルで決定される話だと思う。

 

また、議論や決断には、おかれた状況に応じて基準は変わってしかるべきである。

例えば大阪のような都市は津波に弱いと言われており、

そこで津波や地震をどの程度想定すべきか考える場合に、

原発を守るのとは当然ながら基準は変わってしかるべきである。

何もかも完璧に守る事はできない。

だからこそ優先順位をつけざるを得ない。

とにかく、その判断をする時の科学的根拠を明示し、

政治的・経済的理由を明らかとして、

それを超えた場合に被りうる想定被害の程度を目に見えるかたちでし示す、

それがあって初めて結果的になにがあっても国民は納得するのではないだろうか?