中吊り広告
私が通う電車の中吊りに
ある著作が宣伝されていた。
内容は知らないのでコメントも何もできるはずはないのだが、
広告を一瞥した時に、
私のことをご存知の方にはご理解いただけるある種のアレルギーがでた。
それは、英語である。
著書の題名は「○○の法」で、
これが日本語で書かれている本であることはたぶん間違いないだろう。
しかし、(私にとって)不思議なことにその日本語の題名に負けないくらいの感じで
英語のタイトルとして”The law of ○○”とあったのだ。
これが私には受け入れられない。
念のために申し上げるが、著書自体あるいは内容の一部でも批判しているのではない。
この英文の題名に拒否反応が出てしまうのである。
「○○の法」を訳せばまあこれくらいの英語にはなるのかもしれない。
しかし、我々が「○○の法」と聞いたときの「法」という言葉のニュアンスと
英語の”the law”のニュアンスが同じであるとは到底思えないのである。
定冠詞をつけたところからも思い入れは感じ取れるのだが、
なんとも違和感を覚えているのである。
もちろん、○○の方も英語と日本語の間に違和感を覚えるのは言うまでもない。
似たようなことは過去にたくさん書いているから重複する内容になるが、
著者の脳の中に構築された論理体系を日本語の論理に置き換える場合は
もうこればかりはどうしようもないだろう。
なぜなら言語に翻訳しなければ誰にも伝わらないからである。
しかし、それを仮に別の言語に表現するとしたら
それは脳の中の論理体系からその言語に直接転換するべきだと思っている。
間に日本語を挟む必要など一切ないし、
日本語を介して二段階翻訳をしてしまうと、
おそらくもとの重要なニュアンスは消えることだろうと感じる。
ましてや、日本語で書かれた日本語の書物に
なぜわざわざ英語のタイトルを付けたのかがはなはだ不思議なのである。
私は商売がら英語を書くことがよくある。
同じ内容のことを日本語と英語で書くときもある。
その場合には決して翻訳にはならない。
文章から構成までまったく異なる場合だってある。
それの方がその言語で書きやすく、
いいたいことの最も重要な部分が伝わりやすいと思えるからで、
逆に自分の日本語を英訳する(あるいはその逆)と
たぶん分かりにくい文章になるだろう。
その日本語題目も、逐語訳的な英文タイトルにするより、
その本質的意味を表現するもっと他の英語表記があったかもしれない。
“I love you.”を「月がきれいですね」と訳するセンスこそが
言語の感覚なのだろうと私に思えてならないのだ。