存在

存在という言葉を最近考えている。

英語ではbeingが適当だろうと思うが、

やはり~ingがついている。

ingが指し示すニュアンスとは

限りなく短い微分的な時間軸を考慮に入れて

とにかく現在進行的にそこにあり続けるって感じだろうか?

一方、日本語の存在という言葉は

ただそこに「ある」という事実を示すだけであって

まさにいま「あり続けている」という

微分的な時間軸を包含する意味はおそらくないだろう。

 

当たり前のことだが、

存在という一言をとっても言語によって意味が違う。

この違いは本質的なものであり、

存在というものを哲学的に扱う場合に

たとえばハイデガーの考える存在を日本語に訳して

それをハイデガーの哲学として日本語で認識できるのか?ってところで、

思考が完全に停止してしまい先に進めない。

 

目の前にあるモノは本当に存在しているのか?について考える場合でも、

「存在する」という言葉が意味するものが日本語と外国語ではおそらく違う。

だから、ものの存在を問う前に、

「存在」ということば自体を問わなければならないが、

存在ということば自体をどのように問いかけるのか?

これが考え始めてみるとまったく分からなくなってしまう。

 

ハイデガーの「存在と時間」はたしか上下二冊の予定で書き始められたはずだが、

そして、たしか上巻には下巻の目次までついていたはずだが、

結局上巻のみ、全体の三分の一くらいで思索が止まっていたように記憶している。

ハイデガーを私ごとき小人と比較するのも恐れ多いが、

何となく全体を俯瞰して書き始めてから、

実際にしっかりと議論を始めると

最初の見通しどおりの論を進められなくなってしまうことって普通にある。

ゲノム論を書き始めた結果として、

ゲノムの概念が空中分解してこのブログで迷子になっている今の私の状態は

まさにそういうことなのだろうと思う。

ソシュールも「講義」を3回ほどした後に沈黙してしまったし・・・。

何となく説明できそうな気がしても、

いざ思考・思索を始めるとさまざまな矛盾や問題が明らかになり始め、

すべてを貫き通す論理にはなかなか到達できないのだろう。

 

こう考えると「遺伝子」と”gene”が本当に同じものを指し示すのか

何となく疑わしい気持ちにすらなってくる。

ちょっと底なし沼にはまり込んでしまったみたいだ。