奈良の大仏の「意味」
本欄の読者にはもうご理解頂いているだろうが、
橋本の周辺だけで通じる「奈良の大仏」という言葉がある。
もちろん、東大寺大仏殿に鎮座されている大仏さまを意味する言葉ではない。
詳細は「かたち論」の12ページをお読みいただくとして
大きなくくりでは「過大な先入観」を指す言葉といえるだろう。
この言葉の由来は橋本の少年時代の経験に基づく。
それは、例えば矛盾という言葉が
矛と盾の故事に由来するようなものである。
さて、この言葉の「意味」を少し考えてみる。
私たちが矛盾という言葉を「矛盾」の意味に使っているのは
矛と盾の故事に依っているのではなく
現在の日本語に完全に依存していると書くと
違和感を覚える方が多いと感じる。
極端なことを書けば、
たとえば何かのきっかけで矛盾という言葉が
「美味しい」という意味で使われ始めたらどうだろう。
これはあながちないことではない。
現在の若者言葉として「ヤバい」はまさに「美味しい」の意味に使われている。
私などは「これ、めっちゃヤバい」などと言われたら
「腐ってるの?」とすら感じる言葉であるが、
若い人たち同士では何の違和感もなく「美味しい」として受け入れられる。
だから「これ、めっちゃ矛盾やん」が
「これすごく美味しい」を意味しても何も不思議ではない。
もちろんヤバいが美味しいの意味になる過程では
ある程度納得できる変化があるのかもしれないが、
それは基本的にはそう説明できるだけであって、
その言葉を受け入れる場所が存在したからこそ
定着したということにすぎないのである。
矛盾という言葉が「矛盾」の意味に用いられている理由は、
その言葉がその意味として現在の日本語の文脈で使われているからに他ならない。
毎日、日本語が話される至る所で矛盾という言葉が矛盾の意味に用いられているから、
矛盾という言葉に変化が入る余地がないのである。
要するに変化させないといった淘汰圧を受け続けているからこそ、
矛盾は矛盾であって、それ以外の意味には(今のところ)ならないのである。
きっかけとして何らかの定義が先にあって使い始められる言葉もあろうが、
それはあくまでもきっかけにすぎず、
それが使われる文脈において常に淘汰圧を受け続けなければ
その意味は簡単に変化もするであろうし、
あるいはその言葉そのものが消滅する可能性すらあるということであろう。
眼を作る事ができるという事実も、
それが当然そうなっているというのではない。
眼を持つことに意味付けがなされ続けなければ
眼という構造の意味が消滅するであろう。
だから、光の届かない洞窟の中に生息する
メクラトカゲとかは眼の構造を維持できない。
奈良の大仏も、それが指し示す状況が存在し、
その状況を表す為に用いられ続けなければ消え失せる。
というか、まだこの言葉にはそれだけの市民権を得てはいない。
ところで、「ヤバい」のように奈良の大仏も本来とは別の意味を持つことになれば
それはクリスタリンの例のような「前適応」と同じと考えて構わないと思う。
ゲノムと言語を類似性をいう人が以前からいる。
しかし、その議論はゲノムが4文字で表現され、
例えば英語が26文字で表現されるという
形式的な類似性を越えないとしか思えない。
言語とゲノムはそれぞれが別の論理体系であり、
その体系の本質に意味を求めない限り
両者の比較はそれこそ「無意味」であろう。
言語の変遷の過程でもその意味が淘汰圧を受け
あるいは前適応に似た現象が見られるが
これは形式の類似性ではない。
この意味において比較言語学的考察をゲノムの意味論に当てはめるのは
非常に重要なことだと思う。
私たちは生きものを考える上で「相似」と「相同」が重要であると習ってきた。
相同というのはその由来が同一である類似性であり、
相似というのはたまたま似たような形や働きをもった類似性である。
ゲノムと言語の相同性を探る時に、
ゲノムを、4種類の塩基の配列として考え、
そこに言語のような品詞を見いだすような努力は
本質を外しているように感じられてならないのだが、
実際のところはどうなのだろうか????