視覚と触覚
辻井伸行さんの事を考えていた。
昨年、国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を果たした全盲のピアニストである。
例えば、私たちが認識するピアノというものを
辻井さんは手で触れることによって同じように認識していると
私たちはどうしても考えてしまう。
しかし果たしてそうなのだろうか?
視覚情報には時間軸が必要ではないといわれる。
だから固定をし、あるいは写真を撮ったもので情報が伝わる。
しかし、触覚情報には明確に時間が必要である。
我々はモノに触れ続けている状態では情報を得られない。
手を動かし、触れている力に強弱をつけながら認識をしている。
だから、認識の方法論として全く異なる情報のインプットがなされている。
これで何かが違うと言えれば良いのだが思考はここで止まってしまう。
ただ、時間軸の考えを無視したとしても、
触覚でピアノを感じるのと視覚でピアノを感じるのは明確に違うだろう。
例えば鍵盤の厚みを手で触れて感じる事、
鍵盤の重みを指で押して感じる事などから認識されるピアノというものは
私たちが何気なく感じているピアノというものとは全く異なるはずである。
脳に描かれる絵そのものが全く異なるものだろうとすら思う。
眼で見えている鍵盤のどこを押すとどの音が出るという感覚はないのではないか?
鍵盤の並びを視覚的に捉える感覚とは異なる、
というか、鍵盤の並びそのものが物理的な構造として理解されているのだろうか?
ピアノはピアノフォルテと呼ばれるように強弱を奏でられる楽器であるが、
その強弱という事も、私たちが視覚的に認識する鍵盤を
強くあるいは弱く叩くという動作として認識されているとは思えない。
私たちが視覚によって認識している物事を
全盲の方々はどのようなかたちとして脳の中に描いているのだろう?
同様の事は、曲(音楽)のかたちを考えても言えると思う。
曲は五線譜に表現できるかたちであるが、
そもそも五線譜を視認できない以上、
そのような視覚的かたちは存在し得ない。
そこに、誰が聞いても同じ曲であるものに対する認識の違いが
見え隠れすると考えるのは穿ちすぎなのだろうか?