ゲノムと表現型

昨日のブログで,宮田先生との感じ方の違いは何に起因するのか

橋本が勝手に妄想してゴチャゴチャ書いてみたのだが、

その後に酒を飲みながらぼーっと夢想しているときに、

「今までに進化をゲノム体系の視点から論じたものを見たことないかもしれない」と思った。

浅学な橋本のいうことなので、あくまでも「橋本が見たことない」だけの話である。

 

やはり,遺伝子の変異の次にどうしても形態(機能も含めての表現型という意味)の変化を

進化の議論の中で取り上げる傾向が強いような気がする。

だからなのかもしれないが、遺伝子(分子)自体に意味付けしようとすると感じる。

 

私はもう、遺伝子単独の意味を考えられない身体になってしまった。

遺伝子は、ある文脈に置かれた時に特定の意味を持ち

別の文脈に置かれると別の意味を持つだけのことで,

一義的に遺伝子というものは文脈を形成できることが大前提であり、

文脈(すなわち,周囲との関係)を保てないような遺伝子(変異)は

その環境に適応することができず、したがって意味を持てないこととなる。

ということは,その遺伝子はゲノム体系の中に維持されず,結果として淘汰されるのではないだろうか?

だから、遺伝子自体には意味が無く、それが周囲の環境(その他の分子)と特定の関係性を築いた時に

それが表現型となって自然淘汰の対象となりうると考えるのが極めて妥当であると私は思ってしまうのだ。

ある変異は、自然淘汰にさらされる前に、自らのゲノム体系において大きな淘汰圧を受けるわけで,

遺伝子にかかる変異のうちの大部分は自らが所属するゲノム体系から淘汰圧を受けると思えてならない。

 

ゲノムを、「複数の遺伝子が織りなす関係性のネットワーク」であると認識し、

「ゲノム=生物種」と考えて体系論としての進化学はできないものなのだろうか??

コンピュータの得意な人ならなんかシミュレーションを書けそうな気がするのだが・・・。