序論
序論のかなりの部分が丸々他人の文章だったという論文が話題になっています。
なんというか、ちょっと信じられない。
これは異論もたくさんあると思うのですが、
私は論文の中で最も重要な部分は序論であると思っています。
序論を読めずしてその論文は理解できないとも思います。
もし、それがその分野の解説だとしたら、
教科書並みに数冊の書籍が書けるくらいの分量になるでしょう。
だから、序論に書くのは、
一般的な解説の中でも、その研究の位置づけを明確にするものだけだと思います。
過去の研究を羅列し、現在の知見を網羅するのが目的ではなく、
その論文の立ち位置を歴史に照らして明確にするもの、
すなわち、その論文で述べたいことに関わる過去の事実は
論理的にそして明確に整理されて述べられなければならないのですが、
それ以外の事実、それがたとえその分野では重要な事実であったとしても、
その論文の主張することに関係なければ抜かれなければならない、
その論文の考察で触れられることに関してはもれなく書く、
しかし考察に必要のないことはできるだけ書かないということで、
その論文の主張や論旨を単純明快にするという重要な役割を持つのが序論だと思っています。
だから、私にとって数ページは論外としても、たとえ段落ひとつとっても
そこにある文章が完全に他とおなじってことはあり得ません。
私たち英語を母国語としない研究者は、とくに微妙な表現に関してはかなり苦労します。
だから、様々な論文を読んで上手い表現を探したりしますが、
これは外国語に限ったことではありません。
日本語を書くときでもどうしても書ききれない表現がいくつもあります。
そのときに他人の文章の中にぴったりの文章を見つけたら
その表現技術は拝借することがあります。
しかし、それでも一文そのまま拝借なってことはあり得ません。
表現の妙をお借りするだけで、
前後の文章とのつながりはもちろん、
使用する単語なんかも含めて文章としては新しいものになるはずです。
また、多くの文章を参考にして己が作文すれば、
絶対にひとつの文章からだけの真似にはなりようがない。
だから、完全に同じ文章が、しかも数十ページにも渡って載せられるというのが
私にはまったく理解できません。
逆に言えば、一本の論文しか参考にしなければ
文章自体やその構成も含めてすべてはその論文に似てくることはあり得ます。
だからたくさんの論文を読んで消化しなければならない。
でもね、この場合でも絶対に一言一句が同じになることはあり得ない。
私は学生に「序論をしっかり読めない人間は論文を理解できない」と最初に言います。
序論によって、その論文の歴史的位置づけがなされるわけで、
序論により、歴史的に見たその分野の問題点が示され、
その問題点にどのような議論が存在し、
それに向けてどのように解決を試みるのかが示されているからです。
いきなり「まず図1を見て下さい」と論文紹介を始める学生がいますが、
その分野の専門家でなければ、大まかな背景は知っていたとしても、
その中での問題意識を確実に持ちきれていないのが普通でしょう。
問題意識を持たずにいきなり実験の説明や結果の説明をされても、
それは何の意味もないと私は考えます。
序論は、論文執筆の最後に書く部分です。
それは、実験結果をどのように配置したのか、
その結果をどのように考察したのかによって序論が変わるからです。
たとえば実験の方法や結果を書くときには、
まあ決まった表現が多数存在するので似たような文章が並ぶかもしれませんが、
序論だからこそ、自分の意思表明の文章だからこそ、
他人と同じ文章になることはまずあり得ないと私は思うのです。
結果には関係無いから構わないとおっしゃる人がいます。
それを全面から否定しようとは思いません。
しかし、私にとって自分の言葉で序論を書けない人間は
科学的考察ができない人間だと思ってしまいます。
また序論で自分の研究の位置づけがしっかりできてない論文は
読む値すらない論文ではないのかとすら感じます。
余談ですが、NatureやScienceが部外者から見て読みづらいのは
序論すらも極力削って筋と骨だけにまで削ぎ落とした体裁だからだと思います。
だからこそ逆に博士論文という枚数も体裁もある程度自由に任されているものこそ、
自由奔放に自分の意見を書き込んだら良いし、
それができる場所に他人の文章を貼付けるだなんてもったいなくて、
この意味においても信じられないのです。