死に至る病

死に至る病は絶望であるとどこかの誰かが言っていた。

その意味は若い頃には分からなかった。

ただの宗教家・思想家がふと思いついたことを言って、

それが歴史の流れに乗っただけ(さすがにこれは言い過ぎだろうが)のように

何となく思っていた。

絶望という言葉の意味には、もちろん辞書的な意味は存じていたが、

まったく気づいていなかったということだ。

 

先日、大津市のイジメと自殺の因果関係が第三者委員会によって示された。

年齢をある程度重ねれば若い頃の一時期なんて取るに足らない、

命をかけて思い悩むほどのことはないと思う。

しかし、そのときその場所にいる本人にとってはその瞬間が人生のすべてである。

もっと言えば、将来のことを思い描くことすら考えに上がらないくらいに

精神のすべてを現実が占領しているのだろう。

 

希望があれば、それは空しいから元気であってもかまわない、

希望さえあれば現実はなんとしても乗り切れると思う。

希望がないから絶望なのだ。

あまりに当然の「辞書の定義」を言っているのではない。

わずかの希望でも、たった一人の友人や一人の先生からの

周りから見たらちっぽけなことであってもかまわない、

それがあってくれていたら絶望にはいたらなかったのではないだろうか?

 

ここでいまの日本を考えさせる。

いまの我々が直面しているのは例えば老後への不安である。

失業への不安である。

将来への不安なのだ。

守ってくれるべき国家に対する失望が

自分の人生への絶望へとなっていると考えても決して言い過ぎではなかろう。

自殺者が毎年3万人を超えている。

死に至る病が蔓延しているのはおそらく間違いではない。

そして、その病を治すのは理屈でも政策でもない。

信頼であり希望なのだろう。

大阪市の橋下市長のことはいろいろと叩かれている。

無茶苦茶な誹謗中傷が大新聞社系列の雑誌に書かれたこともある。

それが間違っているかどうかわからない。

ただ、彼の実行力、彼の指導性、リーダーとしての資質、

そして何よりも彼の日頃からの努力が市民に希望をもたらす。

根拠のない希望かもしれないが、

希望には根拠などいらない。

明日へと生き続けるための心の活動力なのだ。

望みを絶つ、絶たされる、そんな状況は変えなければならないだろうし、

変えていけるのではないだろうか?