家に引きこもって買いためていた本を読んでいる。

ことば関係を中心に何冊もたまっていたのを

水風呂につかりながら斜め読みしているのである。

 

さて標題だが、キリスト教で言うところの「罪」という概念である。

別の言い方をすれば、キリスト教を翻訳した時に

日本語で「罪」となった概念の話である。

いや、これも少し違う・・・・まあとりあえず書きます。

とにかく読んでいる本に出てきた話だ。

まさにいま読み終えたばかりの本の内容なので

その本(著者)にかなり引きずられてしまうことはさけられない。

普通は自分の中で噛み砕いて、その他の知識ともよく混ぜ込んでから

自分のことばとして表現するのであるが、

この文章はその本の表現を引きずったものになるかもしれない。

ただ、私が言いたい内容はその本(著者)の主張とは異なると感じるので

文体や文章そのものが似通っているところはご寛容願いたい。

 

旧約聖書はもともとヘブライ語で書かれていたが

広まるためにはギリシャ語に翻訳されなければならなかった。

新約聖書も「ギリシャ語の親戚」のような言語で書かれた。

したがって、聖書の教えは元々ギリシャ語によって表現されていたとなる。

しかし、キリスト教がラテン語に翻訳され、

それがローマ帝国の国教になって欧州各地に広まったことで

翻訳による言葉の齟齬が生じたそうだ。

 

もちろんそれは大いにあり得ることで、

翻訳による齟齬の可能性はこれまで本欄でも何度も指摘している。

それをして大げさに語るのも今更のような気がするのだが、

でも、それがキリスト教を、もっといえば世界を揺るがすとすれば

これは「そんなこともあるよなあ」と語るのもどうかという気になる。

 

さて、「罪」である。

元々のギリシャ語によると「まとはずれの」「(神に)ふさわしくない」くらいの意味であったらしい。

そこからラテン語に訳されて現在の罪の意味になった。

ただここでも気をつけなければならないのは

日本語の「罪」とラテン語の「罪」の意味はたぶん間違いなく異なるということだ。

ただ、おそらく罪状という感覚の「罪」という概念は当時のギリシャ語の意味にはなかったのだろう。

そこから、罪を神に許してもらうための「免罪符」なるものが考え出され・・・・

いや、この辺りはもっと深く面白いので機会があれば(頭で噛み砕いてから)改めて書きたい。

ただ、この翻訳の齟齬から生じたことが中世欧州を大きく揺るがしたという事実は、

違う意味で今日にも当てはまることではないかと考えてしまう。

 

それにしても、あらゆる現象を言語の観点から見直すという作業は

実はものすごく大切なんじゃないかと思うこのごろである。

もちろんそれは歴史的な話のみならず

科学においても現在進行形で何かが起こっているような気がするのだ。

なんだかわくわくする。