教科書
いつだったか誰かが「教科書に下線を引くところなんかない」と言っていました。
もう、すごく納得しました。
というのは、社会科なんかわかりやすいと思いますが、
例えば教科書の数行の内容で長編の歴史小説が書けるくらい重要な歴史の流れを含んでいるわけで、
それが教科書全編に渡って同じことが言えます。
逆に言えば、教科書とはその出来事の最小限の中の最小限を羅列しただけの、
言わば箇条書きの項目を接続詞などを入れて日本語のかたちにしたにすぎないものだから、
それ自体が、ちゃんとした歴史書物の中の「これ以上は短くできないところ」に下線を引いたモノだから、
教科書にはそれ以上に下線を引くことはできないという意味なのでしょう。
高校の先生が以前おっしゃっていました。
高校の(高校に限らずだと思いますが)試験問題は穴埋め式が多い。
そうすれば生徒は穴埋めを解くための勉強をすることとなり、
その勉強方法は単語カードみたいな単語の暗記になってしまう。
この試験のやりかた自体は悪いとは個人的には思えません。
きちんとできる生徒にはきちんと点が取れるし、
単語カード式の勉強しかしない子には点が取れないからです。
でも、このような試験問題が氾濫していることで、
生徒は単語カード式の勉強法で良いと錯覚してしまうことになりますから、
その意味ではこの手の試験問題は良くないと言えるのかも知れません。
私たちは何かの物事について他の物事と関連づけずに覚えることはできません。
だから、歴史の勉強なら歴史小説を読む方が単語カードで覚えるよりはよほど理に適っている。
周辺の人物の関連性を頭に入れると、その人自体は教科書に出て来なくても、
その人が接着剤となって他の事象がすっと頭に入る。
でも、歴史書に下線を引いて作られた教科書には歴史上は大して重要ではないからその人物は出て来ない。
ただし、その辺りの歴史物語を書くとき、あるいは話す時にその人物を抜きにしては語れないし、
教科書の登場人物だけでは物語にすらならないのは事実であるわけで、
ということは、その人物を知ることは当然のことな訳です。
だから、おそらくその部分の授業では先生はその人物や別の人物の話題にも触れる。
これは当たり前のことなのですが、
生徒は「教科書に出ない=試験に出ない」という理由でその話を聞こうとしない。
あるいは聞くだけ損だと思ってしまう。
それは、教科書が単語カード化しているってことの証拠なのです。
ただ昔の教科書も同じようなものでした。
それは「教科書」という以上は仕方ないことだろうと思います。
だからこそ先生がいらっしゃるし授業があるのです。
その昔の教科書すらも「多い」として内容を減らしてしまう。
円周率を3でいいとしてしまう。
この考え方で勉強などできるはずがないと私は思います。
「ゆとり世代」と言われる人たちは本当にかわいそうだと思う。
大人のバカな持論に振り回されて、
若いうちにしなきゃならなかった勉強をする機会を奪われてしまったのだから。
とにかく、全てのものは関連づけて覚えられるべきであり、
その意味において理系と文系の差はまったくありません。
また、関連付ける以上はある程度の登場人物は必要です。
ある人と事象だけ知っていれば良いというのは事実ですが、
それを理解するためにはその他との関連なくしては不可能です。
「行く」は五段活用の動詞だそうですが、
その理由が「行く」に「ない」を付ければ「行かない」となるからだってことは、
「行かない」という言葉を知らなければ理解できないことでしょう?
「行く」は「五段活用」だということだけ覚えればいいから
それ以外は一切教えないってことをさせる教育が正しいとは思えません。
なんか最近、ぼやき漫才になっているなあ。
天国の人生幸朗師匠が何かを私に送ってきているのかも知れません。