ミッシングリンク

ミッシングリンクってよく聞く言葉だろう。

もともとは生物進化を考える上での、

ある生きものと別の生きものをつなぐためのものっていうのか、

この間にはこういう生きものがいたに違いないって仮定を指す。

始祖鳥なんかはミッシングリンクそのもののようなものだろう。

で、最近ではもう少し広義に使われている言葉だろう。

推理小説で、探偵の推理を実証する為に欠けている証拠のようにも使われるはずだ。

 

この場合、まず定義的に現存する証拠だけではかたちが成立しないので、

かたちをかたちとして成立させる為にあるものを仮定することが必要であり、

それをミッシングリンクと呼んでいる。

それはそれで構わないのだが、

現実に研究活動をしていると、ミッシングリンクは少し異なった考え方となる。

現在手持ちの証拠では体系を構築するのに不十分だというのはそれで良い。

そして、あるかたちを作る為に都合の良いものを仮定して

それをミッシングリンクと呼ぶのもそれで良いだろう。

ただ、現実にその仮定が正しいかどうかは分からないのだ。

その仮定の置き方とは、全体のかたちを置き方に依存する。

全体像がこうであると仮定(期待)して、

そうであるならば、こういう証拠が必要であるという論理となる。

だから、そういう証拠をしてミッシングリンクというのだが、

全体のかたちが期待と大きく異なった場合には、

間をつなぐミッシングリンク自体も予想とは異なる。

全体構造が輪っかのようなものだと仮定して、

それをつなぐ鎖を予想していても、

全体が枝分かれした構造だったりしたらその鎖は存在し得ない。

 

さて、この言い方だけだとおそらく誤解をされる。

この場合の問題点とは、全体構造が予想と違うことにある。

まだ見ぬ全体性を予想するということは、

手持ちの証拠をその予想通りに並べて関係づけることに他ならない。

しかし、全体のかたちが予想と異なる場合には、

現存する証拠の関係性がまったく間違って考えられていることとなるのだ。

いろんな要素を並べて「きっと立方体だから、ミッシングリンクは角になる部分だ」と思っても、

実際にかたちが三角錐だったとしたら角になる部分の角度は異なるし、

それ以前に、それ以外の要素の並べ方も間違っていることとなる。

 

現実には、ミッシングリンクというか、新しい証拠が偶然に得られた時に、

これまで思い描いてきたかたちが間違えていたことに気付かされる。

ATP合成のミッシングリンクは、ADPにPを渡す為の中間物質であるX-Pであった。

世界中の名だたる研究室がX-Pの発見に力を注いでいた。

しかし実際にはX-Pなるミッシングリンクは存在しなかった。

ピーターミッチェルの発見は、

それまで描かれていたATP合成のかたちを根本から叩き直した。

これが現実なのである。

そして、分子生物学はミッシングリンクを簡単に置きすぎる。

そしてその仮説に合うデータを作り出す。

もちろんねつ造という意味ではない。

大きな全体像を対象とせず、要素の部分的な関係だけを明らかにし、

その関係性を足し算して全体を構築するという操作をする。

だから、一つ一つの事柄は、その前提においてはすべて正しいのに、

全体としてみたら何も説明できない。

風が吹いたら桶屋が儲かってしまうのだ。

ミッシングリンクを想定するということは全体像を想定することと同義である。

だからこそ、要素還元主義的分子生物学には最も向かない方法論であるはずだ。

それが、簡単になされている現状は普通に考えておかしいんじゃないかな?

 

まあ、これは分子生物学に限ったことではなく、

日本で科学的だと思われている多くの議論に当てはまることだろうと思う。

各論から全体を見ることはおそらくできないのだ。