自然崇拝
先日館長に、伊勢神宮のように山や木々を神としてまつる信仰は
西欧人には理解しにくいのではないかということを申し上げたら、
ヨーロッパでは木々に対する信仰は普通にあるし、
おそらく全世界的に自然崇拝は存在すると言われた。
そう考えてみればなるほどと思う。
さらに館長は、歴史のないアメリカにはそのような信仰はないだろうが、
それでもネイティブアメリカン(日本語でなんと言うの?)やイヌイットなどは
自然を対象とした信仰を持っていたはずだということだ。
私は、その信仰についての知識がないのでなんとも言えないのだが、
伊勢や熊野古道、あるいは比叡山や高野山などの信仰と同様なものなのだろうか?
私は従来、仏教を宗教とは考えず、ひとつの哲学大系だと思っている。
ただ、法然さんの念仏あたりから思想・哲学とは異なってきたような気もする。
もちろん法然さん自身は偉大な哲学者(仏教者)だったのだろうが、
その思想を具現化した時に仏教が思想体系から乖離したように思う。
それにしても、インド・中国から渡ってきた仏教思想を
伊勢神宮に代表される自然崇拝と見事に融合させた結果として
比叡山があり高野山があるのだろう。
さて、日本人のキリスト教信者にも言えることだが、
日本で生まれ育って日本語を使い思考する我々が、
唯一絶対神の存在を前提とする宗教をどのように受け入れているのか興味がある。
端的に言えば、存在というものを神に帰結させる立場と、
存在を自然との関わりに求める立場の違いであり、
「個」を重要視するか「関わり」を重要視するかの違いでもあるだろう。
両者の間をどのように融通するのかがにわかには理解できないのだ。
西洋哲学は基本的に存在をア・プリオリに規定して議論を始めているように思う。
だから、ハイデガーの議論する存在と我々が認識している存在のずれが浮き彫りになる。
このような西欧の社会思想の歴史をさかのぼった時に
自然信仰の思想体系を持つ社会が唯一絶対神を持つ社会へと変わっていく経緯が不思議なのだ。
ただし、単に自然信仰とひとくくりにできない可能性はある。
というのも、思考体系と言語体系の間には歴史的な相互関係が存在するはずであり、
西欧言語の思考体系は神を抜きには語れないからだ。
話はもっと単純なのかもしれないが、
私はどうしても互いに相容れない二つの思想体系の変換や共存が
大いなる矛盾を包含しているように思えてならない。
あるいは、私が西欧思想と言っているものは西欧の人の普通の思想体系ではなく、
非日常的な意味での西洋哲学の思想体系であり、
一般の西欧人の思想とは一線を画すものになるのだろうか?