表現すること
ベートーベンは晩年に聞こえなくなった。
しかし、創作活動は続けていたそうだ。
我々凡人には理解する事は難しいのだが、
おそらく外部感覚器としての聴覚はもはや必要なかったのだろう。
何かを認識する事とは、それを脳が認識する事である。
決して、眼が見る事、耳が聞く事ではない。
だから、夢を見るし幻視幻聴を感じる。
あくまでも脳がそれを認識したかどうかなのである。
「誰もいない森の中で巨木が倒れた時、そこに音は存在するか?」
という、古い命題がある。
答えは「音は存在しない」だそうだ。
その理由は、「音」というものは人間の脳が認識して初めて存在するものなので、
そこに人(の脳)が存在しない限りにおいて音の存在もあり得ないとなる。
逆に、脳が音として認識できれば、外部感覚器からの信号ではなくても構わない。
だからベートーベンも、脳の中に曲のかたちができあがり、
それが「音」として脳の中に流れていたのだろう。
この過程はおそらく健常者と何ら変わりはなかったと思う。
あとはそれを楽譜に起こすだけの事であろう。
逆に、楽譜を読むだけで脳にその曲のかたちが瞬時に構築されるのだから
楽器が介在する必要など全くなかっただろうし
この過程に絞れば聴覚は必要なかったのだろう。
ただ、演奏者によって具現化される時、
それが彼の脳に作り上げられたかたちに等しいかどうか
彼には確認するすべがなかっただろう。
音楽は演奏技術ではないとよくいわれる。
それ以上の芸術性が無ければならないそうだ。
一つの音符は機械的に一定の時間一定の強さが規定されているのではなく
演奏者や指揮者によりその解釈が異なる。
有名なところではベートーベンの「運命」は八分休符から始まる。
指揮者は、この一番初めにある八分休符をどう表現するのかに苦労するらしい。
己の脳に思い描くその曲のかたちを楽器により具現化させることこそが
表現者が最も重要視するところであり、
そこに芸術家としての独創性・独自性が存在する。
これは間違いなく画家や書家などにも相通じることなのだろう。
こんな事を考えると面白いなあ。