練習
表題から想像される内容とは違うと思いますが、良い表題を思いつかなかったもので・・・。
よく、アメリカと日本の野球の練習の違いが言われている。これは野球に限らずアメリカと日本のスポーツに関する考え方の違いなのかもしれない。私は、スポーツに限らずアメリカ的な思考に寄っていると思う。
体力や持久力をつける訓練を全体練習で行なうことに私は否定的である。全体練習では、一人でできない練習、複数人数がいないと行なえない「連携プレー」とか、チームによる作戦やサインプレーなどに時間を費やすべきであり、一人でできることは一人でするのが筋だと思う。特にプロなんだったら、皆が集まらないとランニングできない(しない)なんてことはあり得ないだろうと思う。仮に、「この部分を鍛えたい」とか「こういう動きができるようになりたいのだが、どのようなトレーニングが良いのだろう」など具体的な疑問や相談があるのであれば、チームにいるであろうトレーナーとかに聞けばいいし、特別メニューをトレーナーとともにやっていくのはいいと思うが、それでも個別の問題なのでチーム全体を巻き込む意味はないと思う。要は、全体練習が終わってから「走り込み」や「筋トレ」など、個人の能力を高める練習を一人ですればいいことだと思う。
「こういう動きをしたい」としたら、そのために必要な柔軟性や筋力が備わっていなければならない。持久力がなければ、試合終了間際の体力の限界に近いときにその動きはできない。これらは監督やコーチ、先生や先輩が教えられるものではないのだ。コーチができることは、アドバイスだけであって、努力は個々人がしなければならないのは当たり前だろう。だから、プロ野球のキャンプで、全員が並んでランニングをする様子や、坂道ダッシュをしているのが報道されるたびに、「こいつらはほんまにプロか?」と思ってしまう。キャンプに入る前に、あらゆる練習をこなせる肉体は各自で作っておくべきであり、「死の合宿」なんてやらなければならないことがおかしい。
理想論がすぎるだろうか?
ただ、この考え方は自分の首も絞める。なぜならこれはスポーツに限らないからである。スポーツに限らず「勉強」も同じこと。何度も書くが、教科書は「よくぞここまで」と思えるくらいに内容を凝縮している。だから、教科書にアンダーラインを引く部分はない。引くとすれば教科書全部に引かなければならない。逆の言い方をすれば、その内容を説明する長い文章の、「他も重要だが、これだけは絶対に削れない」という部分を抜き出したものが教科書である。だから授業が必要なのである。また、先生も限られた時間内ですべてを話すことはできないので、授業だけでは完全な理解にはならない。我々研究の世界でも、論文を読んで知識をつけるのは一人で行なうことだ。先生が教えてくれるものではない。もちろん、一人で勉強してもわからないことはある。それは先輩なり先生なりに聞けばいい。先生は、野球のコーチやトレーナーのようなものだ。だからこその自主練である。体力・筋力・持久力は一人でつけなければならない。その上での授業であり先生なのだ。では、私が学生の頃にこれができていたのか???これはかなり怪しい。大人になって経験を積んできたからこそこの考え方に至るのであろう。だから、昔から年寄りは「今の若い奴は」という。でも「今の若い奴」はその言葉の真の意味が理解できない。これの繰り返しである。