学習・進化・・・そしてAI (余2)
これまた余談だが、「知の巨人」的な人は大抵の場合に莫大な知識を持っている。いや、逆だな。莫大な知識を持っている人のことを指して「知の巨人」と呼ぶ。
思想について歴史的に考える時、折々に特定の人命が上がる。思想史の年表を作ったら、必ず上がる名前がある。その人たちやその思想を考えてみると、時代背景など、その時でなければ現れなかったであろう思想であることに気づく。また、その人が持つ知見(知識だけではなく、過去の偉人たちが確立してきた思想も含めて)の存在が垣間見える。端的な例だが、西洋思想の多くに「この考え方は、一神教的な思想が根本になければ成立しなかっただろう」と思わせるものも少なくない。逆に、構造論的な考え方は日本人には馴染みがあるが、西洋人には驚きだったのだろう。
なにが言いたいのか?だが、それは単純に、「人間のみが成し得る」と人類が勝手に思い込んできた「創造」ですら、その個人が持っている知見をどのように関連づけられるかに依っているということである。一神教(キリスト教)的背景を持たない人には思いつかない思想がある。同様に、仏教的背景を持つ人にしか思いつけない考え方もある。要は、その個人がどのような背景を持ち、それらにどのような関係性を持たせるかが「思想」である。
だから、人間のみが成し得る行為だと人類が勝手に思っていることも、結局は要素の並べ替えに過ぎないということになる。こうなった場合、人間の思考には限界がある。個人の持つ知識なんて高が知れている。それらに新しい関係性を持たせるという行為も、結局はその個人が持つ(他人は持たない)知識に、従来とは異なる関係性を確立させる行為にすぎない。その人が持たない知識は、その思想の中では無かったものとされる。人間の知識量を遥かに超える、というか現在デジタル化されているすべての情報を知識として使うことができるAIには、人類が思いもつかない新しい思想や哲学を創造する可能性が存在すると考えるのが普通だろう。最近では、現存するデジタル情報では飽き足らず、古書まで読み込ませてデータベース化しようとしていると聞く。
「コンピュータと人間(の脳)の違いは創造性である」的な考え方をする人が多々いるが、それは過去の、人間が法則性をプログラムして、物理的に計算させるような「人間主導」のコンピュータの話であり、現在のAIとは明らかに一線を画すると思っている。先のブログでも書いたように、人間ごときが考えた文法をプログラム化して翻訳機を作ったところで、不自然な言語にしかならない。だから、ちょっと前に外国から来た詐欺メールなどは「日本語がおかしい」ことで見分けることができた。でも今は、我々人間の学習、生物の進化と同じ行為をAIがしている。計算能力の高さと知識量の多さから、人間の脳が立ち向かえる余地は全くないのではないかとすら思ってしまう。